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暖かくなってきたとはいえ、まだまだ朝一番の水には肌を刺すような冷たさがある。それでも春貴は、何度目かになるその水をばしゃりと額に叩きつけた。
日課である朝練の汗を流すためではなく、はねた泥を落とすためでもない。むしろ、汗や泥ならどんなによかったことか。
ごしごしと赤くなるほど額をこすり、そして再び手にした鏡を覗きこむ。
残念なことに、そこには奇妙な紋様が変わらず残されていた。
「……やっぱり消えないか」
不思議な紋様はまるで額の一部になってしまったかのように、寝起きに見つけた時のまま、薄まることもなく紅の美しい色合いを保っている。花のような紋様だ。もちろん春貴の記憶に覚えのある印はなかった。
これをつけられた時のことを思い出すと、同時に春貴の頭にあの白い子供の姿が浮かぶ。
ただ、浮かんだからといって理解することはできなかった。一体この身になにが起きたのか。
あの騒ぎの後、数名の官人に連れ去られあれやこれやと問いただされたが、その間あの子供の説明がされることもなく、結局なにもわからぬ状態で大ノ宮を追い出されて今に至る。
しかも陽が落ちるまで拘束されていたせいで屋台のほとんどははけてしまい、楽しみだった報酬もうやむやにされたままだった。
考えれば考えるほど怒りがこみ上げてくる。
そんな春貴の怒りの矛先は、別の方向にまで及んだ。
助けてくれるかと淡い期待を持っていたあの男も、結局最後まで姿を現すことはなかったのだ。顔をあわせないようにと避けていたのは自分なのだが、それでも昔のよしみというものがあるだろう。
少しくらいの情もないのか。それとも、勝手に離れたこの身に愛想をつかしてしまったのか――
そこまで考えて、春貴はまた冷水を顔に浴びせた。
決して口にすることはなかったが、あの男からの強い情を春貴は確かに感じていた。
その手に優しくほほを撫でられたこともあったし、その腕に抱き寄せられたこともあった。お互い口にすることはなかったが、そこには確かに暖かい感情があったと思う。
今は御簾の奥へと行ってしまった存在だが、今でもその視線が自分に向けられていると春貴はどこかで感じていた。
決して過信ではないと思っていた。昨夜、淡い期待を砕かれるまでは。
「まぁ、髪で隠れるからいいか……」
ここでもんもんと考えていても仕方ない。
勢いよく立ち上がった春貴の表情はすでに、本日の晴天のようにさっぱりとしたものだった。
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