1人が本棚に入れています
本棚に追加
― 思い思われ振り振られ。誰か好きな人出来たのかな?
―うっさい!
実家の乙女な母と思春期な自分の声が蘇る。
鏡には、とっくに成人した自分。
「二十歳過ぎてニキビもないよなぁ。…吹き出物?」
ネクタイを締める手が止まる。
「・・・」
ひとり言にいたたまれない気持ちになりつつ、数日前から悪化の一途をたどっている…フキデ…赤い炎症を触る。結構根が深そうだ。そのへんにあった軟膏を塗って、ネクタイを整え、ジャケットを羽織る。
(思い思われ…振り振られ…?)
顔の上で十字をでたらめな順番で何回か切ってみる。あれってどこ始まりが正解だったのだろう。そもそもそういうのって女子の嗜みであって、思春期の息子に何を言ってるんだよ…と、時を超えて母親にクレームを入れる。
「あ…忘れた」
まだ習慣とまではいかないマスクをつけ今度こそ準備完了。いつもより厚めに下ろした前髪のせいもあって、顔の見える範囲が極端に少ない。
これからは、これが普通になっていくのかもしれない。顔がいいとか悪いとかそういうことではなく、好感度?とか好印象とか、そういうものは何を基準に判断していくのだろう。あまりに情報が少ない気がする。
週に数度となったリアルな出社。ほんの少しだけ密度の減った電車内はマスクのせいで、より無機質さを増したよな気がする。
すぐ近くに吊り下がる女性誌の広告をぼんやり眺めると「マスク美人のマストアイテム!」という見出しに目が留まった。瞬間、きれいな額が思い浮かぶ。
(…たしかに額きれいだけど…)
と、誰に対してでもなくなんとなく言い訳をする。その額の持ち主が誰か僕は知っている。
自宅待機、リモートワークから数カ月ぶりに出社の日。毎年冬から春にかけて多くなるとは言え、見慣れたオフィスで全員がマスクをしている姿は、ちょっとしたパラレルワールドにも感じた。
口元が見えないとコミュニケーションがほんのり難しくなるし、思った以上に人の印象が変わることも知った。
ヒゲがワイルドな上司が実はつぶらな瞳だったと気づいたり、とても華やかな顔と思っていた後輩は口元が魅力だったのだな、と気づいたり。…これまで全然気づかなかったけど、この人、額がとてもきれいだな…と気づいたり。
控えめな雰囲気というくらいで、特別な印象など持ったことのなかった二期上の先輩。マスクをすることで顔の上半分が強調されたからだろうか。伏し目がちな先輩のまつげの長さとか、形のよい額は白く滑らかで、とか。色々発見があったというか、なんというか…。
(すごい…きれいだな…)
書類の確認をしてもらっている間ずっと額を見つめてしまった。
「どうか、した?」
「…!…いえなにも…」
それ以来、勝手に気まずくなって、不自然な態度をとってしまっている。
短縮勤務で残った仕事の在宅での段取りを頭の中で組み立てながら、帰宅するマスクの行列に加わろうとした時、ふと呼び止められ振り返った。
マスク美人な先輩が、自分で呼び止めたにも関わらず、戸惑ったように立っていた。
「えっと…」
「ごめん、急に。あのね…教えたいな…と思って。」
「え?」
先輩の人差し指が自分の額を指す。つられて僕も自分の額に手をやると前髪の下の腫れに触って、かすかに痛い。
「んー、と、どうしたらいいかな…」
勤務中より少し砕けた口調の先輩は、僕に何かを教えたいらしい。結局、無料通信アプリを交換して送られて来たのは、とあるサイトのURLだった。
「大人ニキビ…」
僕は自分の額に出来たもののふさわしい呼び方を手に入れた。
「そう、私ずっと悩んでて、これ、よかったから。」
「ありがとう…ございます。」
先輩とこんな会話をしているのがとても不思議だった。控えめで、あまり私語もしない人で、どことなく遠い存在のような気がしていたから。
「…ほら、なんかだんだん悪化してたし。」
「そうなんですよ…」
「どんどん前髪厚くなっていくから、気にしてるんだなって思って。」
「いや…そんな…」
そんなつもり…あったな…。それにしても、なんなんだろうこれは。マスクの中の温度が上がる。
「オモイオモワレ…フリフラレ…」
「え?」
「なんか急に思い出しちゃった。思い思われ、振り、振られ…だったかな?」
先輩の指が額、顎、左、右…と順番にたどっていく。それで行くと僕のは…。
「良いのに巡り合って、ほとんど出なくなってたんだけどね、最近急にすごいのが出来ちゃって。」
「え?でも…」
先輩の額は今日も美しい。
「…最近、キレイになりました?」
ぽかんとした先輩の顔に自分が発した言葉を頭の中で反芻して慌てる。
「いや…!その!…最近って言っても…以前をそんなに知っている訳では…じゃなくて……えっと、先輩の額キレイだなって思ってて…。…!あ!いや…っ!その…」
わかりやすく狼狽える僕に、先輩がコロコロと笑う。
「やっぱりそれ、使ってみてね。」
「はい?」
「今送った、それ。」
「…はい。」
「私も買い足さなきゃ。ここに出来たの手強そうなんだ。」
先輩が顎を指差してマスクの下の秘密を明かす。
「おすすめだよ。だって私、使って本当に良かった…というか良いことあったから。」
「じゃあね」と言って先輩が軽やかに僕から離れていく。僕は前髪を掻き上げて額に手を当てた。
(あ…)
数ヶ月前、マスク必須以前の先輩は前髪を厚く下ろしていた。今の僕のように。
せっかく見せたいお肌を手に入れた先輩には謝らなければいけない。顎に急に出来たそれ…すみません、きっと僕のせいです。
最初のコメントを投稿しよう!