偉大なる王、メンケペルラー陛下(万歳)の即位21年目 暑熱季②

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偉大なる王、メンケペルラー陛下(万歳)の即位21年目 暑熱季②

 日暮れ時になってようやく一通りの仕事が終わると、カプタハは、仕事道具を取りまとめ、川べりへ降りて、帰路を運んでくれそうな舟を探した。この辺りの村の住人は、お手製の小さな葦舟に乗って川の向こうとこちらとを行き来する。舟の材料の葦は幾らでも川に生えてくるから川べりに住んでいる村人は、一軒に一隻と言わず、家族一人に一隻くらいは持っているものだ。  今日は丁度、漁をしている最中の同じ村の顔見知りの舟を運よく呼び止められたから、一緒に村まで送ってもらえることになった。  「どうだい、相変わらず、仕事は大変かい」  「まあな。ぜんぜん給料に見合わんよ。今の時期は朝に一度、昼に一度、ひたすら水汲み、水やりだ。少しでも手を抜いたら枯れてしまう。何だってあんな辺鄙なところに庭園を造るんだか。」 岸に着くまでは、ちょっとした世間話の時間だ。人の多いところで大っぴらに雇い主の悪口は言えないが、水の上なら誰かに盗み聞きされる心配もない。  「そういうのがいいんだろうよ、身分高きお方々は。滅多な人間じゃあ出来ないことをやりたがる。たとえば、でっかい神殿を建てるとかさ。ウアセトに行った建築技師のイトコは、まだ太陽柱を建てるのに苦労してるよ。ひとつ間違えば首が飛ぶってんで、緊張で夜も眠れない、と言いながら毎日昼寝してるんだよ。ははは」  「あの葬祭殿が完成する日は来るのかねぇ」 言いながら、パヘネシはくるりと振り返って、川向うの崖際に影のように浮かぶ職場を眺めやった。葬祭殿は川の西側の崖に沿うように作られているから、正面から陽が当たるのは朝だけだ。後から建設が追加され、彫刻師たちが悲鳴を上げながら像を掘っていた川べりから伸びる長い参道は、もうそろそろ葬祭殿まで繋がろうとしている。  そして視線を戻せば、川の対岸、東側には、王族や貴族たちの住むウアセトの都と、何代か前の王の頃に作られた、大きなアメン神のお社がある。  陽の沈む西側、死者の国があるという谷へ通じる崖際には、死者のための葬祭殿。  東側には、生ける者たちの住まう場所。  東岸と西岸の間を流れるこの川は、都に住まうお偉方の思想の上での生と死の境界線なのだった。  もっとも、カプタハたち普通の村人にとっては、毎日顔を洗い、用を足し、魚を釣ったり仕事場に行くために渡ったりする、生活の場所でしか無かったのだが。  葦舟が目的地に着いて、礼を言いながらカプタハは舟を降りた。空になった弁当の包みを手に家路を急ぐ。彼の家は、川からは遠い、村の一番奥にある。毎年夏の時期になると川が増水するためだ。増水は、灌漑の必要な畑にとってはいいものだが、植木にとってはたまったものではない。  彼の家の周りには、両親や兄夫婦、その他、親戚縁者の家が、小さな庭園を取り囲むようにして建っている。  柵を張り巡らせた一族の庭園には、珍しい草花やぶどう棚、柳や松の苗木など、貴族の邸宅に植えられるような植物が、たくさん育てられていた。  何代も前の時代に外国から船やロバで持ち込まれた苗木を、増やしたものもある。都の金持ちから注文があれば、要望に沿った植物を掘り起こし、庭や花壇に植え付けるのだ。或いは葬儀のために、良い香りのする植物を選んで葬送の花輪を作ったりもする。時には神殿からの注文を受けて、薬草を届けることもある。カプタハの一族は、代々、そうやってして川の東岸と西岸に、ありとあらゆる植物を提供して来たのだった。  自宅に戻ると、妻のイセトは前庭で、糸つむぎを回していた。臨月を迎えた腹は大きくせり出している。  「ただいま」 声をかけると、イセトは顔を上げ、にこりと笑う。  「お帰りなさい。お腹は空いてる? そろそろ夕食の支度をしましょうか」 ゆったりとした動作で腰を上げる彼女の後ろに、カプタハはそっと手を出して待っていた。そうしなければ、ひっくり返ってしまいそうに見えるからだ。  「あんまり無理しなさんなよ。兄さんとこのマイアは?」  「台所にいるはずよ。心配しなくっても、今は家のことだいたい義姉さんがやってくれてるのよ。義姉さん時はあたしが手伝ってたから、これでおあいこね。」 イセトは、そう言って朗らかに笑った。体調は良さそうだ。初産だから心配していたけれど、これならきっと大丈夫に違いない。  家の中へ入っていくと、カプタハの兄の子供が、手に木製の鳥のおもちゃを持って、元気いっぱい走り周っているのが見えた。部屋の向こうは、すぐに中庭に繋がっている。季節を通じて何かは花を咲かせている小さな庭園からは、今日も、風に乗って優しいいい香りが漂っている。木陰に揺れる青い小さな花に気づいて、カプタハは、思わず顔をほころばせる。  「咲いて来たか。」 弁当の包みを置いて、カプタハは庭に出た。柳の木の根元に、群れになって小さな花をせっせと咲かせているのは忘れな草だ。ごわついた毛のある固い葉からは想像も出来ないほど可憐で、透き通るような色をしている。  彼は、この花が好きだった。  いま手掛けている葬祭殿の前庭にも、木々の下生えとしてこの花を植えよう、と思っていた。青い花が絨毯のように咲くさまはきっと綺麗だろう。多少の乾燥にも強いし、今は木の茂りも良くない無機質な前庭が、少しでも華やげばいいと思っていた。  園芸を生業とする一族の共同の中庭は、様々な木や花がきれいに分類されて植え付けられている。生命の果実を実らせるイチジクに、優雅に枝を張る合歓(ねむ)の木。それから貴族の好む葡萄のつるで作った棚、すっくと立つ葵に、池には羊草や水蓮も揺れている。ここは小さいけれどどんな王や貴族の庭園にも負けないと、カプタハはひそかに思っていた。この仕事は、彼の自慢でもあるのだった。  「カプタハ、戻って来たばかりなのにまだ仕事してるの?」 窓からイセトが笑いながら顔を出す。  「食事の支度が出来たよ。早く戻ってらっしゃい」  「ああ、判った」 名残惜しそうに立ち上がると、彼は、家族の待つ食卓へと戻って行った。  お成りがある、と知ったのは、それから何日か経ったときのことだった。  「王が来られるらしい。女の方のだ」 血相を変えた調教師のホリが駆けて来た時、カプタハはちょうど、家から持って来たワニナシの苗を植え付けていたところだった。  「お成りって、現場の見学か?」  「ああ、そうだ! 参道が川から繋がるのに合わせて、葬祭殿まで来ると…。」 気が付けば、あちこちで上へ下への大騒ぎになっていた。  彫刻師は文句をつけられないために、どうやってお成りまでに見える部分の彫刻を進めるかで頭を付き合わせて相談しているし、壁画絵師のワジュは口から唾を飛ばしながら、色絵職人たちに何か指示を怒鳴っている。けれど庭師のカプタハには、急いで出来ることは何もなかった。何しろ、植物の成長は、神様でもなければ急がせることは出来ない。  (忘れな草がまだ根付いていない…) 育ちの遅い黒檀の見栄えがしない。その横に追加で植えた柳とアカシアの間に、数輪だけの萎れかけた青い花を咲かせた忘れな草が、ひっそりと固まって生えている。土はかなり入れ替えたはずなのに、ここでは暑すぎるのか次の蕾が出て来ないのだ。  「お成りはいつだろう」  「明日か一週間後か。ことによったら今日かも知れねぇ。ああ、どうすればいいんだ。王宮の偉いさんから、白狒々に芸をさせて出迎えろと言われたんだ。あいつは一週間前から下痢で弱ってるっていうのに」  「何とかするしかないさ。それとも、元気のいい赤狒々のほうでごまかしたら? どうせ、見慣れてないから分からないだろう」  「余裕だなあ、お前」  「こっちはどうしようもないからな。諦めの境地さ。まさか王様だって、今すぐこの貧弱な乳香の木を大木にしろ、なんて言わないだろう。それこそ神聖なるアメン神の奇跡で何とかして欲しいもんだ。」 そう、お成りがあろうと、無かろうと、いつもの仕事をするだけだ。――今日も、明日も。  ホリが立ち去って行ったあと、パヘネシは、騒ぎを聞きつけた助手たちが顔を見合わせてひそひそ話しているのに気づいて手を叩いた。  「何を見てる? ほら、止まっていないで自分たちの仕事をしろ。」 水汲み人の行列は今日も、川の方から列をなして上がって来る。今は川の水位の一番低い時期で、ために水を汲みに行く距離も一年で一番、長いのだ。けれどもうじきすれば、川の水位は上昇に転ずる。河の神(ハピ)の恵みの季節の到来だ。それとともに、一年で一番暑い季節がやって来る。  暑さに枯れそうになっている弱い苗木に日陰を作ってやりながら、カプタハは、生まれてくる子の名前を考えていた。  そしていつものように、時間も忘れて自分の仕事に没頭していった。  唐突に、しゃらん、しゃらん、という聞き慣れない音が、意識を現実へと引き戻した。  振り返ると、庭に面した白い塔門を潜り抜けて、召使たちの担いだ輿が二つ、しずしずと入って来るところだった。大きな扇を手にした男たちが輿の上の貴婦人たちに日除けを作り、女官たちは別の扇で絶えず風を送っている。音は、彼女たちの腰や扇の柄につけられた金属の飾りから涼やかに響いてくる。  先頭の輿に座っているのは、よく肥えたナツメヤシの幹のようにどっしりとした、意志の強そうな顔をした中年女性だ。後ろの輿には、糸柳のようにほっそりとした気の弱そうな色白の若い女性が、消え入りそうに座っている。二人は親子だろうか。雰囲気こそ真逆だが、顔立ち自体はよく似ている。  ぼんやり眺めていた彼は、行列が中庭でぴたりと歩みを止めた時、はっとその正体に思い至った。  ――これが、王のお成りなのだ。  先頭の輿の上の女性は庭園を一瞥すると、お付きの高官らしき人物を呼び寄せて、何やら囁く。  「責任者はどこか!」 高官が声を張り上げて、慌ててカプタハは手ぬぐいで顔と手の汚れをこすり落としながら進み出た。  「わたくしにございます」 言いながら、地面に平伏する。平民が王の前に出る時は、そうしなければならない仕来りだからだ。木立の間で突っ立っていた助手たちも、水汲みの労働者たちも、慌てて同じようにする。  「いと神聖なるマアトカラー陛下、ここにおわす生ける神にしてアメン神の御子なる御方(おんかた)より、貴殿、庭師に賜りし言葉ある。謹んで賜るが良い」 仰々しい前口上とともに、いかにも忠臣といった風体のその男は、恭しく一歩下がった。輿の上から、よく響く女の声が降って来る。  「葬祭殿の完成までには、庭は仕上がるのでしょうね?」  「勿論でございます。ただ異国のものは、この国の気候には馴染みません。根付くまでには時間がかかります」  「そう。庭園に時間がかかることは知っている。よく励むように」  「は」  「それと――」 しばし、何かを見ているような間があった。  「あの、木の根元の貧相な草はむしっておいて頂戴」  「草?」 顔を上げた時にはもう、しゃらん、しゃらんと音をたて、行列は再び進み始めていた。  (草、とは…) 雑草など、一本も残してはいなかったはずだ。  そう思いながら振り返ったカプタハの目の前に、あの、忘れな草が生えていた。  「生まれたよ!」  足を引きずり、呆然としながら帰宅したカプタハを待っていたのは、元気な泣き声を上げる赤ん坊を抱いた兄嫁のマイアだった。既に近くに住む親戚たちも集まっていて、帰宅するまで考えていたことなど全部頭から吹き飛んでしまった。  「ちょうど今生まれたんだよ、安産でね。あんたを呼びに誰か走らせようかと思ってたんだけど、その前に出て来ちまった」 笑いながら、マイアはおくるみに包まれた、生まれたばかりの赤ん坊を、そろそろと父親の腕に渡した。  「元気な女の子だよ。おめでとう。」 ずっしりと重たい赤ん坊は、顔を真っ赤にして声の限りに泣き叫んでいる。カプタハは泣き出しそうな笑顔になっていた。  「ああ、イセトにお礼を言わなきゃ。」  「そうしな。でも沢山喋るのは駄目だよ、今は疲れているはずだからね。で? 名前はもう、決めてるのかい」 問われて、カプタハは大きく頷いた。  「ネフェルトだよ。花の名前にしようと思ったんだけど、好きな花が多すぎて――だから花のように美しい子(ネフェルト)、だ。」 腕の中のまだ頼りない蕾をそっと抱きしめながら、男は幸せそうにそう言った。  生まれたばかりの掛け替えのない花が、大きく咲き誇るようにと念じながら。
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