偉大なる王、メンケペルラー陛下(万歳)の即位21年目 暑熱季①

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偉大なる王、メンケペルラー陛下(万歳)の即位21年目 暑熱季①

 敷石の端に腰を下ろした男は、足元に棒切れを転がして一つ溜息をついた。そして肩にかけた、くたびれた手ぬぐいの端で汗を拭う。若い果樹の下に出来た日蔭はまだ心もとなく、暑い日差しから男の体を庇ってくれるほど大きく枝を張り出してはいない。  男は、庭師だった。  彼の仕事場は、日差しを浴びて輝く背後の真っ白な岸壁を背にして、ぴったりと張り付くようにして立つ、今まさに建設中の葬祭殿の前庭だった。葬祭殿とは、それを築かせた王の魂が西方の国へ旅立った後、残された家族や廷臣たちが死者に供物と祈りを捧げ、死して冥界の王(オシリス)となった王の威光にあやかるための施設だ。谷の向こうにある王家の神聖な墓所、その入り口と向い合せになるようにして造られている壮麗な葬祭殿は、しかし、いまだ半分ほども出来上がってはいなかった。  「よぉ。何してるんだい、カプタハ」 ひょっこりと同僚のホリが顔を出した。三つか四つ年上で、同じ村出身の幼馴染だ。調教師として、この葬祭殿の付属施設で働いている。  「占いだよ、占い。もうじき、おれの妻のイセトが子供を産むだろう? それで生まれてくる子の性別を占ってるのさ」  「ああ、なるほど。それで?」  「イセトのやつは女の子だというんだ、麦占いでそう出たから。けど、おれは、男の子が欲しいんだよなあ…。」  麦占いというのは、大麦と小麦の種を蒔き、その上に妊娠した女性が尿をかけるというものである。大麦が先に目を出せば身ごもっているのは男の子、小麦が先に芽を出せば女の子。どちらも芽を出さなければ、妊娠はしていない。村の年よりたちはこの占いの結果は絶対だと言い張ったが、親戚縁者を見ている限り、実際には、当たるか当たらぬかは七、八分といったところだ。  「いいじゃないか女の子でも。子供が出来るのはいいことさ  「もちろん、そうさ。ただ、男の子なら、将来は仕事を手伝ってもらえるじゃないか」  「そん時はもう一人つくればいい。イセトだって一人ぽっちで我慢しやしないだろう? さぁ、いつまでもしょぼくれた顔で座ってないで、名前でも考えたらどうだ。生まれたらお祝いを持っていくよ。じゃあな」  陽気に立ち去っていくホリの腕には、赤い生々しいひっかき傷が残っている。彼の担当は、狒々と猿の世話係なのだ。最近また、南の遠方から新しい白毛の珍しい猿が到着した。人に慣れさせ、芸を仕込んで、貴人たちの宴会にも出られるようにするのが彼の仕事なのだが、気性の荒い大人の狒々や、気難しい小柄な猿たちは、どう頑張ってもうまく人に慣れず、しばしば飼育係を噛んたり引っ掻いたりして暴れるのだ。  それに比べれば、カプタハの相手はおとなしいものだった。何しろ植物なのだから、噛みついてくることはない。ただ時々、不用意に傷つけられた樹皮から毒のある汁を染み出させて、間抜けな助手にひどい手荒れを起こさせたりするけれど。  その助手たちは今、川辺まで水汲みに出かけた労働者たちの指揮をして、せっせと庭に水を撒いている最中だった。  「…はあ」 溜息とともに、カプタハは重たい腰を上げた。  じりじりと照り付ける陽射しが地面に反射して、先日植え付けたばかりの灌木はもう萎れてしまいそうになっている。葬祭殿の入り口の門の脇の、まるく並べられた石の中に収まっている乳香の木でさえ、葉の先がしんなり垂れてしまっている。  水が足りないのだ。  そもそもが、川から遠く離れたこんな谷の奥に庭園を造ろうというのが間違いだ。せめて井戸を掘ってくれればいいのに、「完璧な景観」を保つために、それは出来ないのだという。そしてもし井戸を掘れたとしても、こんな谷の奥では、ろくに水も出て来はしないだろう。  だから水を運ぶためだけに、大量の水運び人が雇われている――それを指揮して水の配分をするだけの庭師がいる。植物の名前と特性さえ覚えていれば誰にも出来る仕事で、日がな一日、ほとんど水を運んで運河と葬祭殿を往復するだけのつまらない役目だ。  けれど給料はいいし、何より、途中で多少サボっていても気付かれない。水運びのロバが言うことを聞かなかったとか、途中で腹の調子が悪くなって少し休んでいたとか、言い訳だって何とでもつけられる。  (楽な仕事。そう、楽な仕事さ。あいつらは。おれは…責任者だからちっとも楽じゃない) ちっとも根付こうとしない異国のヤシ、奇妙な形に枝を広げる低灌木、育ちの遅い黒檀に、精製される樹脂は高価だがすこぶる気難しい乳香の木。馴染みのイチジクや地元のヤシに比べて、一癖も二癖もある連中ばかりが並んでいる。  彼の仕事は、それらを見栄えよく植え付け、育てることだった。南のプントの国まで遠征して手に入れた貴重な木も混じっているとあって、枯らしでもしたらただでは済まない。――そう思うと、無限に溜息が出てくるのだった。  葬祭殿の造営を命じた王の名は、「マアトカラー」という。  これは王のもつ五つの名のうちの一つで、王としての正式な名前だ。正確には「上下の国の王にして、二つの国土の主マアトカラー」。そして五つ全ての名を並べると、それに続いて「諸々の精力(カー)の中で強大なる者」、「年月の栄えし者」、「王冠の神聖なる者」、最も高貴なる貴婦人(ハトシェプスト)にして()アメン神と結ばれたる者(クネメトアメン)、となる。  こんな長ったらしい名前をとても覚えられはしないから、王のことを、カプタハたち庶民は「王」と呼んでいた。  女に王になる資格は無いから、「」という言い方が無いのだ。彼女はあくまで「王の娘」であって、「王の妻」だった。  それが自らを王と称し、戴冠の儀式まで行ったのは、幼い本物の王が即位してから五、六年ほど経った頃だろうか。王は前王の側室の子であり、まだ幼過ぎたこともある。即位してからも、実際に政治を取り仕切っていたのは継母だった、とは、噂で聞いたことがある。けれどそれ以上に、彼女には自らこそが正当なる王家の血統なりという自負と、政治手腕に対する自信があったのだろう。  「あの、女の王は、前王の正室ではあったが床下手すぎて、王のお成りも滅多に無かったそうだよ。それでも夫婦だからには子を為すのは義務だ。ようやく子が出来て、女の子だったが、それで義務を果たしたといわんばかり王様は、夜は離宮に閉じこもっちまった。あんな女を妻にしちゃあ、亭主としちゃあ大変だったろうよ」 宮殿に上がることも、貴人に直接まみえることもない村人たちにとっては、お偉方の噂話は酒のつまみだ。そんなことを言っては下品に笑い合うことも多かった。  実際、女の王の評判は、すこぶる悪かった。  女の身で王を名乗って、伝統を破ったからだけではない。依怙贔屓(えこひいき)が過ぎるのだ。  王宮では、彼女に異を唱えた者はことごとく左遷されるか、言いがかりで罰を受けるという。それを年若い本来の王がたしなめる。まるで、継子である王の人気を高めるためにやっているようなものだった。  さらには思い付きの連続だった。  葬祭殿の建設さえ、もう何度も大枠の設計図が変更になり、設計技師のパシラーはそのたびに死にそうな顔になっていた。前庭に前代未聞の庭園を造りたい、などと言い出して、そのために南方の遠国(プント)に遠征までさせて珍しい樹木を取り寄せた。そのとばっちりは、今まさに、カプタハたち庭師が受けている。  女の我儘(わがまま)だ、と、彼は思っていた。  妻のイセトも似たようなものだ。家の中で家具や敷物の位置をひっきりなしにあれこれ配置換えして、飾り付けを変え、カプタハからすればどうでも良さそうに思える、ちょっとしたことにまでこだわりたがる。王家の女ともなれば、それが部屋の数だったり、柱の位置だったり、庭園の中身だったりするのだろう。  神殿が作られるという話を聞いてから、もう、足掛け十年近くが経っていた。  完成まではまだほど遠い。王は、ようやく外観の柱の意匠に満足したところだった。  水汲みのロバの列とともに助手たちは、狙いすましたようにちょうど昼飯時を過ぎて帰って来た。  (家で飯を食ってから戻ってきたんだな) ロバの元気な様子と、一人の口元にこびりついた食べ滓を見て、カプタハは戻りが遅かった理由を察した。川の対岸に家のある彼は、昼は毎日、弁当だ。けれど多くの出稼ぎ労働者たちは、川のこちら側に作られた職人村に住んでいる。  「ほら早くしろ、ぐずぐずするな。木が枯れてしまうぞ。水をぜんぶ撒き終わるまでは休憩するな」 助手たちはぶつぶつ文句を言っている。  「嫌なら明日から来なくていい。水を運ぶだけなら村の子供たちでもいいんだからな。働かない奴に出す給料は無いんだ。ほら、行った行った」 けれど実際、こうして水を運び続けるだけの毎日は、退屈な上に手間ばかりかかる。せめて運河から近くまで、水を引いてくれればいい。それなのに王と来たら、川べりから葬祭殿までの長い参道を、どうやって羊頭の獅子像で飾るかに夢中なのだ。徒歩で川から上がって来る参道を作る以上、その側に水路など作れない。もちろん、大きな井戸なども。  夢見がちな女の王の求めるものは、荒涼とした崖沿いの赤い大地に忽然と現れる異国の緑と豊かな庭園、という、「非現実的」な光景なのだった。  水汲みのロバが塔門の先へ消えて行った後、続いて、足を引きずるようにしてやって来たのは壁画絵師のワジュだった。土気色の死にそうな顔色をしている。  「おい、どうした。そんな顔をして」  「描き直しの注文が入ったんだ…」 消え入りそうな声でそう言って、男は、目の前に白く輝く、その名も神聖なもののうちの最も神聖なるもの(ジェセル・ジェセルゥ)を恨めしそうに眺めやった。  「ついこないだ、ようやく下書きを完成させたばかりなのに。新しく作る小部屋まで、一つながりの続き絵が欲しいと言われたんだ。せっかく描いた果樹園の下絵を消して、大急ぎで行列に描き換えにゃならん。はあ、もう疲れて来たよ」 絵師の仕事には何段階かある。下書きの線を引く者、それを元に壁画を掘り込む者、最後に着色して仕上げる者。ワジュの仕事はいちばんはじめの下書きの段階で、最も構成力や画力を必要とする、高級職人に該当する部類だった。それだけに成功報酬は大きく、同時に依頼主の”我儘”の最大の被害者ともなりうる。  「この間、練習で描いていた冠のある異国の鳥、あれを入れればいいんじゃないか。」  「ああ、そうするつもりだよ。今日は何を描くかだけ決められればいい。もう、仕上げに入ってる部屋もあるんだがなあ…。」 ぶつぶつ言いながら、ワジュはサンダルを引きずって、炎天下の斜面を本殿の中へと消えて行く。神殿の前庭の部分は、もうほとんど完成しているというのに、奥の本殿のあたりがちっとも完成に至らないのだ。後から付け足された外に張り出す縁台と、王家の祖先たちを祀るための小礼拝所、それに地下室の部分が。二階部分へと上がるための、なめらかな斜面の石組みは、追加の石を引き上げるためにまだ最後の仕上げをされずにいる。彫刻師たちは、いつやり直しの注文が入るかビクつきながら、ノミを振るっている。  大勢の職人たちが、この仕事のためだけに集められている。王都のお膝元で、王家の支給を受けて食べていけるのだ。もしも、もう少し注文主が穏やかで、そして、注文がこんなに厳しくなかったなら、一生かけても割に合うくらいの仕事だったのだが。
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