女神 (1)

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女神 (1)

 ゆっくりと目の前を漂う空中の塵が、差し込む日の光の下でだけ姿を(あら)わしている。    天窓が、光の当たり方によって色を変える万華鏡の中のダイクロイックガラスみたいに差し出す色。    足元のセラミックタイル床はいくつものアースカラーが組み合わされて碁盤割(ごばんわ)りに広がり、モザイクテクスチャみたいな地上が演出されている。    その(あつら)えた地上が尽きた先は空。ではなく全面ガラス張りの窓。すなわち透明な壁に四方が囲まれた空間。    なのにモザイクテクスチャ上には、なぜか広葉樹が立たされていた。 「月橘(ゲッキツ)?」  床のタイルはその一角だけが本物の土。これら床に埋め込まれた植木鉢が規則正しく並び、月橘の木の下には室内にあっても(わず)かな木漏れ日が落とされる。    ほのかに香るアロマのようにテラスを抜ける月橘の香風が葉を揺らす。造られたシチュエーションは送風口からこちらへ吹き込まれていた。    テラスにはぐるりと一回りに並べられた奇抜で斬新なデザインのテーブルと椅子の組み合わせ。中央に併設されたお洒落なカフェ。今はここを訪れた人たちが思い思いの過ごし方をしている。    この程好(ほどよ)くざわついた空間は、まるで現実世界から孤立したアイソレーション空間っぽい。例えるなら天空の城。まわりは見渡す限り天ノ原(あまのはら)で、きっとここだけ空に浮いているはず。    私は強化ガラスの壁に手を添えてここから見下ろす風景を確かめる。文明の利器がもたらした近代都市。それが随分ちっぽけに小さく見える。人の営みが、単に高い場所から眺めるだけでその価値まで違って見えてくるなんて不思議。    私と同じように展望を楽しむカップル。テラスでは会話にいそしむご婦人たち。お洒落なカフェで、開いたノートパソコンをひたすら打つ男性。このビルのオフィスに勤める顔の暗い若者たち。真面目そうな警備スタッフの人、エレベーター業者の人、非常階段の工事の人。ひとりの営業マンらしき男性は、青空を仰いで携帯電話で会話している。大勢のイベントスタッフらしき方たちは、ここでこのあと開かれる音楽催しの準備なのか……そうポスターに書いてある。    音が鳴った。    ビルの展望フロアに置かれたグランドピアノ。誰でも自由に弾くことのできるそのインストゥルメントは一人の少女のしなやかな指によって奏でられる。(そば)で見守るのはきっとお母さん。習得したてのその旋律は、時折リズムを変調させながら聴衆を和ませる。    またそれとは別の音が鳴った。    その激しく耳を(つんざ)く警報音が、この超高層ビルの展望テラスに響き渡る。 「火災警報……」私は小さくつぶやく。  急変した人々の(どよ)めきと悲鳴が混ざり合って音の集団は一斉に動き出す。 「ん?」でも少し不思議だった。  恐怖にかられた民衆が我を忘れ駆け回り、誰の声かも分からない怒号と絶叫はとある核心に集中するが―― 「あっ、そっちは……」    エレベーターは動いていない。    その事実に唖然とするメンテナンス業者の中年男性の口が、まるで真実の口みたいにポカンと開いたまま閉じなくなった。 「ダメかも知れん……」半開きの口でそう言った彼はひとたび(うつむ)いてある方向を見た。人波はそっちに流れる。  さらに悲鳴は拡張され、先程までの清澄で和やかな雰囲気はもう感じられずパニック寸前。鳴りやまない警報が変わらない状況を知らせる。   「みなさん落ち着いて行動してください」老いた警備員の男性の声は民衆へ届かない。    そして――「ヤバいぞ!!」確かにそう聞こえた。イベントスタッフの青年の声だった。 「早く行けよ!!」 「何やってんだ!!」 「止まるな!!」  混雑の中から怒声が飛び交う。    皆の視線の先に数時間前から掲げられていたそれは、明らかに―― 『非常階段工事のお知らせ』と記されたプレートによって民衆に突き付けられた事実だった。 「なぜ非常階段が使えないんですか?!」 「逃げられないんですか?!」 「どうすればいいんだよ!!」  鬼気迫る人々の訴えに工事業者の作業員たちは、たじろぎながら説明する。 「この非常階段は、このビルの開業時から設計と施工そのものに瑕疵(かし)があったんです。私たちは会社の指示で改修工事に来ているだけだ」    逃げる術は失われた。助かる手段は……。  皆が一斉に携帯電話を操作する。おそらくこの火災警報はビル全体への通知だろうから、他の階でも同様の状態だったら……。 「なんでだよ!!意味わかんねえよ!!」 「どうなってんだ?!」 「携帯が!!つながらない!!」 「マジかよ?!」 「回線が混雑しているって!!」  そう大声で叫び感情を(あら)わにした、このビルのオフィスに勤める若い男女は青ざめた表情で顔を見合わせる。 「大事なプレゼンなのに……」 「どうしよう……」  彼らが天を仰いで見上げた先からの風が変わらず葉を揺らす。  携帯がつながらない理由、それは携帯キャリアの基地局は大勢の人間が一斉に通話機能を使用すると、通信回線の許容量を超える輻輳(ふくそう)が発生する。現状もきっとそうなのだろうと予想できる。 「お母さん、こわいよ」 「大丈夫だから」  ピアニストの少女は母に恐怖を告げた。母は娘を安心させようとする。 「あ、あの……」私がその母子へ話し掛けようとした直後―― 「キャアアアアア!!」ご婦人の一人が悲鳴をあげた。  先程まで(かぐわ)しい風をフロアへ送り込んでいた送風口から、白い煙が入り込んできている。  ついにフロア全体がパニックに陥る。白い煙は人々の恐怖心を膨大させてしまった。 「あの、あまり心配なさらないで大丈夫だと思います」私は少女のお母さんに声を掛ける。 「本当なんですか?!」 「ええ、この超高層ビルのような場所は……」  私の言おうとする言葉が、このとき少し離れた場所から聞こえた。 「皆さん落ち着いてください!!」  それは営業マン風の男性だった。今はもう携帯通話はしていないらしい。 「火災警報は煙によるものですが、こちらのような11階以上の高層ビルにはスプリンクラーの設置や延焼しないための防火区画や防炎設備があるため、ここまで火はあがってこない!!」 「煙が来てるじゃないの!!」 「これも(じき)に治まります!そして下にはもう消防が着いてる!」  その説明に民衆は、アジ玉の魚群のように(かたま)りになって移動し、展望フロアの強化ガラスに張り付いて外を見下ろした。 「本当だ……」 「よかった」 「助かる」  安堵(あんど)の胸をなでおろす様子が見て取れる。しばらくして、やや静かになったフロアに館内アナウンスが流れた。 「ただいま火災警報は解除されました。まもなくエレベーター設備は再開します。上層階より順次避難いただきますのでそのままお待ちください」  再開したエレベーターへは、子どもやお年寄り等から優先して乗り込んだ。非常時に非常階段が使えないケースなど誰が想定するだろうか。 「ん?」  私の視線の先には見事にパニックを(しず)めたお手柄営業マンがいた。また彼も天を仰いでいる。 「勇敢なんですね」  私は一言掛ける。 「え?僕ですか?」  驚いた表情で少しのけ()りながら反応してくれた。 「そう、勇敢なあなた。それに色々と詳しい説明も」 「はあ……、まあ」 「助かってよかったです」 「そうっすね」 「私は、八幡(やはた) (ともえ)といいます。お名前うかがっても?」 「えっ、えっと」  よく見ると整った顔立ち。営業マンというより芸能人。割と上背はあって、腕まくりされた肘から手までが筋肉質のその人は、少し照れ臭そうに名乗った。 「名前は、鳥嶋(とりしま) 蓮角(れんかく)っていいます」  かわいい名前。そう思った。
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