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週明けの月曜日、会社に着くなり目に飛び込んできたのは秋月だった。会社の前で腕時計を見て立ち尽くしている。おはよう、と声をかけると、うわ、と小さく声を上げた。
「うわ、ってなによ」
「いや、悪い。びっくりした」
「こんなとこに立ってるのが悪い。何してるの?」
秋月は目線を腕時計に戻すと、まるで時間を読むかのように答えた。
「時計、壊れた」
「今日1日、フリーズしてる秋月先輩のこと想像して笑っちゃいましたよ!」
時刻は18時05分。定時を1時間ほど過ぎた事務所には、私と後輩の2人だけになっていた。
「時計壊れてパニくってフリーズするって……あはは」
「真面目なのになーんか抜けてるんだよねえ」
秋月は会社の前に着くなり自分の腕時計が止まっていることに気がつき、焦り、思考停止していたらしい。
「営業マンだから時間は常に気にしてたいんだろうけど、今どきスマホでも見れるのにね」
アナログ人間もここまでくるとは思わなかった。教えてやると、ああそうか、とやっと体の力が抜けた秋月を見て少し心配になったものだ。慣れないことをさせて仕事に支障をきたすといけないので、私が付けていた腕時計を渡した。シンプルなデザインなので男な人が持っていても違和感はない。
「手首に付けれなくても、とりあえず持っておきなよ」
そう言うと秋月は、これまた分かりにくく表情筋を緩ませていた。
「わ、もうこんなに時間経ってたんですね。時間かかっちゃったな」
「お疲れ様。先、上がってて」
先輩も一緒に帰りましょうよ! と腕を引かれたが、秋月が「今日、仕事が終わったら必ず返しに行く」と言っていたので、それまでは待ちたいのだ。本当は私も帰れるけれど、ただ待つのも暇なので明日の分の作業を始めた。10分ほど経っただろうか。廊下からコツコツと革靴の音が響く。
「あ、星野」
「秋月、お疲れ様ー」
「よかった、まだ会社にいて」
「もう帰るけどね」
パソコンの電源を切り、帰り支度を進める。秋月がポケットから私の腕時計を取り出した。
「悪い。助かった」
「いえいえ、お役に立てて何よりです」
スイと腕に嵌めると、秋月の体温がまだ残っていてた。
「星野さ、」
秋月は目線を合わせずに私の名前を呼んだ。言い難いことを言おうとしている顔だ。
「彼氏でもできたか?」
「は?」
あまりに突拍子のない言葉に思わず間抜けな声が出てしまう。彼氏? なんで?
「違うのか」
「違うよ。なんで?」
「最近早く帰ってるし、誰かと会ってるのかと思ってた」
ああ、なるほど。誰かのため、というより完全に自分のためにしていることだった。傍から見たら、そういう風にも捉えられるのか。でも、秋月がそんな風に考えていることが珍しいなと思った。
「あと……、いや、ごめんなんでもない」
「いやいやめっちゃ気になるから言って」
さっきから秋月は、言っていいのかこれは、と悩んでいるようだった。こちらの視線に耐えきれなくなったのか、はぁ、と大きく息を吐くと、手を口に当てて恥ずかしそうに呟いた。
「……前よりずっと綺麗になったから」
そうかと思った、とどんどん声が小さくなっていく。秋月の顔が真っ赤だ。繋がっているかのように熱を持っていた腕時計の下、自身の脈がどくどく打っているのが分かる。思わず私も顔を覆いたくなった。
「秋月って、私のことよく見てるよね」
「いや、そんなこと」
「…………」
「あります……」
これからは、自分のためだけじゃなくて、この人のために自分を綺麗にしてもいいかもなんて思った。
「おはようございます、先輩!」
「おはよう」
改札を抜けると、朝から元気な声が聞こえた。そのまま2人で会社へと向かう。
人混みのスクランブル交差点で青信号に変わるのを待つ。いつもと変わらない朝。でも、私の心は軽かった。
「あれ? 先輩、キレイになりましたね」
「おかげさまで」
ああ、あのときの女性もこんな気持ちだったんだろうか。信号が青に変わる。いつもより一歩、大きく踏み出してみた。
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