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「ちょっと、春奈ー? 早くしないとご飯食べる時間なくなるわよー?」
「わかってるー。すぐ行くって」
もう、なんでできちゃうかな。朝、洗面所に行くと、寝ぼた顔に赤いニキビができていた。中学生の頃から悩んではいるけれど、高校3年になった今でも悩みは尽きない。おでこなんて、目立つところにできたのは初めてかもしれない。普段はセンター分けの前髪を、アイロンで均等に、額の真ん中のニキビが隠れるように伸ばしていく。分け目がついてしまっているのでなかなか苦戦した。長さも合わないので自分でぱっつんにした。お母さんはそんな私を見て「イメチェン?」と軽く問いかける。
「おでこにニキビできちゃった」
「あら、青春ね〜〜」
青春だからできてほしくないのに、といつも思う。恋愛に精一杯飛び込みたいのに、ニキビは小さな石ころとなって大ジャンプを阻止するのだ。
「あんまり髪があたるのも良くないわよ」
「でも隠したいもん……」
それくらい私も知っている。お母さんは、私の気持ちを汲んでくれたのかそれ以上は何も言わなかった。
自転車を漕いでいると風がフワフワと前髪を浮かせる。じんわり暑いこの季節、いつものなら有難い風だけど、今ばっかりは気になってソワソワしてしまう。駐輪場から昇降口まで、手ぐして前髪を整えながら歩く。アイドルみたいに前髪を固める術、というか、ヘアスプレーは無かった。昇降口に近づいて行くと、手のひらの向こう側に鳴海先生が見えた。
「名護、おはよう!」
「お、はようございます」
そういえば今週は身だしなみ強化週間だった。スプレーはしなくてよかったかもしれない。
「ん、髪型変えたか?」
「えへへ、前髪だけ」
目にもかかってないし大丈夫だ! とにぱっと鳴海先生は笑う。あーあ、今日もかっこいいな。ニキビは嫌だけど、前髪を変えてみたのはよかったかも、なんて。
「今日は日直だったな。頼むぞ。じゃあ、またホームルームでな」
「はい」
控えめに手を振ると、先生も振り返してくれた。
鳴海先生は今年の担任の先生だ。私より先にこの学校にいるのに、私が3年生になった今年、はじめましてだった。学生時代はサッカー部に所属していて、今もサッカー部の顧問をしているその体は、細身でがっちりとしてるけど、担当教科は体育ではなく数学。そのギャップと、少年みたいな笑顔に、いつしか惹かれていた。鳴海先生はまだ26歳と、ほかの先生に比べたら私たち生徒と歳は近い方だ。それでも、18歳の私より8つも大人だ。どんなに少年のように笑っても大人だ。鳴海先生は、先月の朝のホームルームで、ぴかぴかの指輪を教壇の上から見せて婚約したと報告した。相手は2年前に別の学校へ移動となった、1年生の頃の担任の先生だった。学校という同じ環境にいても、先生と生徒で立場が違えば見られ方も違う。今でも婚約発表の傷は癒えていない。それでも、今日もいつもと変わらず、勉強して運動して友達と話して、普通の学校生活を送るしかないのだ。教室に着いたのはホームルームが始まる3分前。友達と軽く挨拶を交わして直ぐに席に着いた。程なくして、鳴海先生が教室の扉を開けた。
「春奈、本当に手伝わなくていいの?」
「あとこれ書くだけだし! りっちゃん塾のテスト今日でしょ? 大丈夫だよ!」
日直の仕事は男女2人で行うが、当番の男子は休みだった。気を使って友人が黒板消し等手伝ってくれたが、日誌だけは私が書かないと直ぐにバレる。鳴海先生は生徒の字を覚えているらしい。頑張って! と残し、りっちゃんは教室を後にした。部活動の始まる時間、教室には私以外誰もいなかった。一括管理された冷房も切れ、私はすぐ横の窓を開けた。さわさわとそよぐ風が気持ちいい。
「前髪、暑いなあ……」
日誌はあと『今日の出来事』を書くだけ。だけど、これが一番面倒で何も浮かばない。額かかる髪を上げ、滲んだ汗をハンカチでぽんぽんと拭き取った。
「名護!」
「ひっ! えっ、鳴海先生!?」
開いたままの扉から鳴海先生が突然現れた。なんで、いまぶかつ、てかおでこ! 頭の中が疑問と焦りで埋まっていく。鳴海先生はいつも私をかき乱す。
「日直、1人だと大変かと思って様子を見に来たんだが」
どくどくと鼓動が急ぐ。鳴海先生がこちらに来て、日誌を覗き込んだ。
「ありがとうございます……もう終わるのですぐ職員室持っていきます」
「ああ、ちゃんと書けてるな」
ちかい。びゅうと鳴る音が耳に音が届いた頃には、強風が教室に侵入していた。日誌が、先生のジャージが、私の髪が、大きく揺れた。
「おー、青春だな」
「はい?」
鳴海先生はとん、と自分の額を人差し指で指した。
「おでこにできるニキビの意味知ってるか? 思いニキビって言うんだ。若いなあ」
思わず両手で額を隠した。今の風で前髪は大きく舞っていたようだ。
「そんなのただのジンクスですよね……」
「まぁな」
ピーッと笛の音が響く。どこかの部活が休憩に入るようだ。鳴海先生は、窓閉め忘れずにな、と言い残してサッカー部の元へ帰っていった。ぱたぱたと廊下を駆ける音がする。聞こえなくなると、途端にため息が出た。パラパラと、めくれてしまった日誌を元のページに戻していく。『今日の出来事』だけ白いままのページを開き、机に突っ伏した。
「あーあ、ばれちゃった」
家に帰ると、お母さんが新しい洗顔料を買ってきていた。
「どしたの?」
「んー? 春奈、ニキビ気にしてるみたいだし……ごめんね、もっと早くこういうの買ってあげればよかったかな」
そう言って渡されたのは、ニキビケアに重きを置いた洗顔料だった。
「ありがと、お母さん」
その夜からお母さんの買ってくれた洗顔を使い始めた。意味無いと分かっていてもニキビの周りを入念に洗ったりもした。もちろん、丁寧に。後日、化粧水まで買ってくれていた。ぺちぺちと塗り込むと、手のひらに頬っぺたが吸い付いてCMみたいだ、とドキドキした。
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