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クラクションを二回鳴らす。
しばらくすると、灰色の壁の二階建ての一軒家から、ベージュのワンピースにスカーフを巻いて、黒いサンダルを履いた千奈美が出てくる。陽射しに顔をしかめながら歩いてきて、車の助手席のドアを開け、素早く乗り込んだ。
「おまたせ」
車内は少し肌寒いくらいだが、暑がりの千奈美はこれくらいがちょうどいいらしい。私はカーディガンを羽織っている。
千奈美がシートベルトを締めたのを確認すると、私は車を発車させた。
千奈美は慣れた手つきでカーナビをいじって、音楽をかける。彼女の好きな曲は大抵入っている。携帯を繋げて曲をかけることもできるらしいが、私はその機能を使ったことがない。彼女は日本の曲を聴かない。ノリのいい曲が好きで、バラードは好まない。ほとんど洋楽だが、KPOPも好んで聴いた。私が特に好きなわけではない海外のアーティストの名前が一覧に並んでいる。スピーカーから流れる男の声が何を歌っているのか、私にはわからない。ただ、なんだか悲痛な叫び声のように聞こえた。
千奈美はこれまた慣れたふうに、クーラーの設定温度を下げた。これでもまだ暑いのか、と私は内心驚くが、口にはしない。
住宅街を通り抜けて国道に入る。しかしそれもすぐに離脱して、高速の入り口に続く道へ右折。
「どこ行くの?」
高速に乗ってしばらくしてやっとそう尋ねてきた千奈美に、私は笑みを漏らした。
「川」
「川?」
「うん、好きでしょ?」
「川が?いや……」
「水が」
彼女は訝しげに私を見て、でも何を言うべきかわからないで黙っている。私はまた笑う。
山を突っ切る高速道路は隣の県へ向かって伸びている。左手はずっと山が続き、時々谷間に集落が見える。右手も山が続いているが、時々大きく開けて海が見えた。初夏の日差しの下、緑はみずみずしく生い茂っている。所々葉のない木もあり、それらは枝分かれを繰り返し先に向かうほどぼやけてワタが付いているように見えた。なだらかな斜面に蜜柑の木が植わった小さな果樹園、細い道の先の祠、恐らくもう繋がらない電話番号の書かれた古い看板。私は小さい頃からドライブに連れて行ってもらうのが大好きだった。両親はよく、高速に乗って隣の県に出て、山道や海辺を走った。私にとって、窓の外の緑は馴染み深いものだ。
千奈美は黙りこくって、窓に頭を凭れさせて外を見ている。
「寝てもいいよ」
横目で彼女を見やって私が言うと、彼女は頷いた。もしかしたら、もうほとんど寝かけているのかもしれない。
ポップ歌手の軽快なものから、重たいサウンドの海外のロックバンドのものへ曲が変わった。車に入っている曲を全曲シャッフルでかけているのだ。彼女の好むものにしてはゆったりとしていて、男性ボーカルの夜の湖のような静かな歌声が耳に心地いい。
「どこまで行くの?」
それから三十分ほど走らせたところで、目を覚ました千奈美が尋ねた。私はすっかり一人でドライブしているような気分になっていたので、その声で彼女がいたことを思い出した。
「隣まで出るの?」
「うん」
「ふうん」
私にすっかり任せる気になっているのか、興味なさげに彼女はまた目を閉じた。私は彼女は寝たものだと思ったのだが、曲一曲も終えないうちに、彼女は再び口を開いた。
「あっくんがね」
あっくん、とは千奈美の彼氏のことだ。
「あっくんが、家族挙式がいいって言うの」
あっくんと千奈美は来年の春に結婚する予定らしい。あっくんは実家が長野で、こっちに残るのか、あちらに戻るのかでもかなり揉めたようだった。結局、彼らのこちらでの仕事のこともあり、残ることになった。あっくんの両親は、ゆくゆくは子供に家業を継いでもらい、二世帯住宅を建てて共に暮らしたいらしかったが、千奈美はかなり嫌がった。私だってそんなことになったら拒否するだろう。向こうのご両親は悪い人ではないらしいが、少しわがままで子離れ出来ていないようだった。あっくんはというと、基本的には千奈美の意見を尊重するが、親への愛情と遠慮も多分にあるので、板挟み状態だ。揉める、といっても、お互い人は良い方なので直接文句は言えないらしく、あっくん挟んで意見を言い合っている。あっくんが気の毒でならない。
「それじゃ私行けないじゃん」
「でしょ?」
彼女は窓の外に向けていた顔をこちらに向けていった。私が千奈美の味方だと明言したことで勢い付いてさらに続ける。
「私はさ、結婚式って滅多にないんだし、みんなに私のドレス見て欲しいし、友達呼びたいの。でもね、あっくんのご両親が」
そこで区切ってため息をつく。前方に向けられた瞳には彼らが浮かんでいるのか、眉を顰めている。
「つくづく意見が合わないね」
「そうなの。良い人なんだけど」
私たちは高速を降りて、奥の方にまだ山の見える田舎道を走り抜ける。大型スーパーがあるかと思いきや、水田が現れ、また建物ばかりになる。田舎と言うと本当の田舎の人に怒られそうだけど、都会とは程遠い町だ。
千奈美がトイレに行ってお茶を買いたいと言うので、コンビニに立ち寄った。彼女が店内にいる間に、ルートを再確認する。何度も行ったことのある場所だけど、念のため。
車内からでも、冷蔵庫の前で立って飲み物を選ぶ千奈美の姿がみえる。千奈美は細身で、女性にしては背が高く、一見性格がキツそうに見える顔立ちをしているため、近寄りがたい雰囲気がある。よく笑う子で、笑顔になると一気に温和な顔つきになるのだが、人見知りなので初対面ではただただ冷たい印象しか受けない。彼女と親しくなったのは大学生の時だ。言語のクラスが同じだったのがきっかけだったはずだが、馴れ初めはほとんど覚えていない。いつの間にやら一緒にいるようになっていた。
お茶のペットボトルが二本と、お菓子の入ったビニール袋を片手に千奈美が戻ってくると、私は再び車を発車させた。
木造の古い家が増えてきた。先ほどまで遠くにあった山が近い。道も狭くなり、建物の数はさっきまでより少ないはずなのに圧迫感がある。その村を抜けると、今度こそ私たちは山道に入っていった。
整備された曲がりくねった坂道をひたすらに走り続ける。左手には網のはった崖と、落石注意の看板があり、右手にはガードレール、その向こうは斜面に木々が生い茂っている。その奥には、連なる木々に隠れてたしかに川があった。
すれ違う車はめっきり減った。後続車もない。千奈美は隣で取り留めのない話をぽつりぽつりの気の向くままに話している。私は相槌をうち、時々話を継ぐ。ほとんどあっくんと仕事の話で、たまに家族や大学時代の話題も混じった。
「ねえ、そっちは彼氏いないの?」
と千奈美は何度も尋ねたが、私は微笑んでかぶりを振った。千奈美の知る限り、私に彼氏がいたことがないので、隠しているのではないかと私を疑っているのだ。彼女からしたら、ずっと独り身の私は不可解な存在なのだろう。女性というのは、いや、人間というのは、自然と伴侶を見つけてそこに幸せを見出すものだと思っているのかもしれない。そして私もそれを望んでいると信じて疑わないのだ。彼女のセッティングした合コンに連れ出されたこともあれば、あっくんの知り合いを紹介されたこともある。中にはとても感じのいい人や、趣味の合う人もいたが、異性としての好意を向けられた途端私の気持ちは萎えてしまって、みんな疎遠になってしまった。彼らと私がうまくやっている間は、千奈美はとても嬉しそうで、彼らの話を私にさせたものだった。私が関係を終わらせるたびに、私よりも落胆していた。
「あなたは奥手だから」
千奈美は慰めるようによく言ったものだった。一体なにを慰めようとしていたのだろう。彼女の的外れな親切は心地よいが面倒で、それを回避するのに私は骨を折った。
「キャンプ場にでも行くつもり?」
いつまでたっても終わらない山道に千奈美が尋ねた。
「言ったでしょ。川だよ」
「キャンプ場の?」
「いや」
家を出てからもう一時間以上経っていた。一向に目的地につく気配がないので、また疑問が頭をもたげてきたのだろう。私が笑って否定すると、彼女も呆れたように笑った。
「もう、何企んでるの」
「内緒」
彼女は微笑んだまま、視線を窓の方へ逸らした。
「でも、川に行くなら水着を持ってきたらよかった」
「裸で泳げばいいじゃない」
千奈美はハッと短く笑った。
「正気?」
私は声を立ててふふと笑い答えない。千奈美は肩をすくめて「やっぱあなた変よね」と言った。
「ねえ、ほんとどこ行くの。そろそろ教えてくれてもいいじゃない」
私は答えない。
「ねえ」
千奈美の声に苛立ちが混じる。
私はアクセルを思いっきり踏んで、ハンドルを右にきった。
暗転。
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