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午後の専修授業が始まった。ピアノ専修の教室では担当教諭が長々と演説している。新入生に授業の仕組みと役割を教えている様なのだが、持ち上がり組にしてみれば中等部と同じ内容なので、とにかく退屈だ。飛鳥は教室の一番隅の席で寝ている。もちろん横には龍太がいるのだが、起こす気は全くないらしい。
「…では、1人ずつ自己紹介をかねて好きな曲を弾いていってもらおうか」
教師が1人ずつ名前を呼ぶ。呼ばれた生徒はピアノの前まで行くと、名前と出身校を言い、曲を弾き始める。高等部からピアノを専門的に学びたい生徒達の集まりだけあって、曲もクラシックの高度なものばかりである。綺麗なピアノの音色が教室中を包み込んでいる。
「では、神道飛鳥」
教師が飛鳥の名前を呼んだ。飛鳥はさっと立ちあがり、ピアノの前に座る。
「自己紹介をしなさい」
「神道飛鳥、持ちあがり」
教師の言葉に飛鳥は座ったまま言うと、いきなりピアノを弾き始めた。瞬間、教室中がざわめく。飛鳥が弾いているのがジャズだったからだ。軽快なリズムを奏でる飛鳥を生徒達は呆れ顔で見守った。
「神道! クラシック以外を弾くとは何事だ」
演奏を終えた時、教師は顔を真っ赤にして怒り出した。ピアノの世界ではクラシック以外は『邪道』と呼ばれているのだ。教師はまだピアノの前に座ったままの飛鳥の横で滾々と説教を始めた。
「うるせーな」
「なに!」
「好きな曲を弾けと言ったのはあんただ。クラシックとは言っていない。格好つけてたって、どれも同じようなもんじゃねえか。簡単だ」
飛鳥は平然と教師に喧嘩を売ると、今度はクラシックの中でもテンポが速く、かなり高度なテクニックを必要とする曲を弾きはじめた。生徒達が息を呑み、教師は茫然としていた。
「これでいいんだろ?」
飛鳥は茫然としている教師に軽蔑の眼差しを向けると、自分の席に戻った。龍太が飛鳥に耳打ちする。
「飛鳥がジャズ弾けるなんて思わなかった」
「わざわざ教える必要ねえだろ」
「で、また喧嘩売っちゃってどうするの?」
「クラシックしか頭にない馬鹿を相手にする義理はない」
飛鳥は平然と言ってのけた。そのうち、教師も我に返り、次の生徒の名前を呼んだ。生徒達は様々なクラシックの曲を弾いていく。結局、混乱したのは教師だけだったらしい。龍太も、無難にクラシックを弾き終えて戻ってきた。
「では、今日はここまで。明日からは本格的な授業を始めるのでそのつもりで。神道、中等部の延長と思っていると痛い目を見るからな」
教師はそう告げて飛鳥を睨み付けた。
「そっちもな」
飛鳥の見下した薄ら笑いに、教師は顔を真っ赤にして教室を出ていった。その瞬間、生徒達が飛鳥の周りを取り囲む。ほとんどが新入生達だった。
「すごい! 感動しちゃった」
生徒の1人が叫んだ。飛鳥は無表情で生徒を見る。隣にいた龍太は茫然とその成り行きを見守っていた。
「本当は私もクラシック以外の曲、弾きたかったの」
「俺も」
「すっげー嫌な先生だな。見ててすっきりしたよ」
以前とは違い、かなり好意的に見てくれていたようだ。飛鳥は軽く頷いた。
「それにあの曲、よく弾けるよな。先生の茫然とした顔、見物だったぜ」
「そうそう。してやったりだよね」
龍太は唖然とした。今までにない考え方である。他の学校だと、先生に対してこんな事を考えるのか。龍太は近くの生徒に話しかけた。
「ねえ、先生に対してそんな事言ってもいいの?」
「だって、ここに先生がいるわけじゃないじゃん。何を言おうが平気だよ。村上君ってすっごい真面目なんだね。えらいなー」
話しかけた女生徒は明るく笑いながら言いきった。当の飛鳥はすでに周りの話を聞いていない。窓から外をのぞいていた。
「あたし達、神道さんの大ファンになっちゃった」
盛り上がっている生徒達を横目で見た飛鳥は、無言で目を逸らした。
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