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出発。
スペイン行きの飛行機に乗り込む直前、私はいつも使っているSNSに一言だけ呟いた。
『旅行目前。28歳、彼氏にフラれました。』
反応が来るのを見る前に、スマホを機内モードに切り替える。頬に触れると、涙が流れ過ぎて荒れた跡が、かさかさと伝わってきた。
「あーあ……」
思わず声に出して呟いたけど、周りから視線は飛んでこない。それもそうだ。
乗ろうとしている飛行機は深夜便。成田空港から、マドリードへ行く便で、周りはサラリーマンや旅行を楽しみにしている人ばかり。
本当ならこの飛行機には、彼氏だった三野俊樹と一緒に乗るはずだった。
社内恋愛をして付き合いだした彼とは、恋人になってから5年目。
トシ、なんて呼んでた昨日までの自分を思い出して、深くまたため息をつきそうになる。
フラれたのは、本当に昨日のこのくらいの時間。彼とは結婚も前提に付き合っていて、私の両親に挨拶も終えていた。
(なーにが、夏樹は真実の愛じゃなかった、よ。真実の愛とか、今時、女子高生でも夢見ないわよ……)
突然、彼は私から会社の後輩に乗り換えた。乗り換えたというか、彼女に前から私との付き合い方を相談していて、その流れで惚れたという。
そして私に、別れて欲しいと言いに来た。
(信じらんない……)
彼氏だった男の申し訳なさそうな顔に猛烈にムカついた。本当に、何もかも許せない。取り乱すのも許せなくて、真顔のまま『じゃあ荷物も全部送り返す、もううちに来ないで』などと言ったら、あの男はため息をついた。
(そういうところが夏樹は可愛げが無いとか、チケットは自分が受け取るとか、アホよ、アホ……)
予定していたスペイン行きの旅行チケットも、ホテルも、どうやらあわよくば後輩ちゃんと行くつもりだったのだろう。こんな男だとは、思っても見なかった。
「別に構わないけど……。うちの親にも、謝ってくれるんでしょうね? ……」
「えっ……い、いや、君が言ってくれよ」
最後のひとかけらだけ残っていた私の良心が、それでキレた。
ひとまず俊樹を思いっきりビンタして、合鍵もその場で取り上げて、荷物は全て自分が処分することを認めさせた。そして会社の後輩には、お幸せに、とメールを送った。
返信など、確認してすらいない。
彼が逃げるように出て行ったあと、どれだけ泣いたか分からない。
結婚を望んでいた自分のことも、彼と過ごした日々のことも、何もかもがまっさらになったんだから。
おかげで顔は真っ赤だ。
「……さてと、そろそろ搭乗開始かな」
立ち上がり、荷物を引いて人の波に乗る。
ずっと泣いているのは、性に合わない。私は1人でも、スペイン旅行に行くことを選んだ。搭乗開始から20分ほどして、席についた。見るからに快適そうなビジネスクラスのシートを選んだのは、あいつだ。今思い出しても、スペイン旅行の旅費もあいつに出させれば良かったと思う。
少しイラつきながら席に座ると、ころんっ、と突然、膝上にテディベアのぬいぐるみが転がり込んできた。
つぶらな黒い瞳、茶色いふわふわの体。まじまじと見つめていると、慌てた声が隣から届いた。
「すみません!」
隣にいたのは、ワイシャツにジーンズ姿の男性だ。どうやら彼が、このテディベアの持ち主らしい。荷物整理をしていて、手元から落としてしまったみたいだ。
「いえ、どうぞ」
「ありがとうございます」
大切そうにテディベアを膝へ抱える彼に、ちょっとだけ、不思議に思った。
「可愛いテディベアですね」
「ええ、彼女なんです」
「……はぁ」
正直、ドン引きだった。確かにテディベアは可愛い、かわいいけど……。
彼女って、どういうことだろう。
「本当は一緒に来たかったんですけど、来れなくて。せめてって思って、一緒に連れてきたんです」
「そう、なんですか……」
少しだけ、ドン引きしていた気持ちが持ち直せた。
「残念ですね、彼女さん」
「ええ……。仕方がないんですけどね」
どこか切なそうに笑う横顔に、私はもしかすると彼女さんが来れなくなった訳は、とても悲しい理由かもしれないと、そう思った。
よく見れば彼の目元には、私と同じような、泣きはらした赤黒い跡がある。
「……私も本当は、一緒に来る予定だった人がいたんです」
「そうなんですか?」
「ええ。でも土壇場で行けなくなって、もったいなくて、1人で来ました」
「あはは。じゃあ、似た者同士ですね」
笑った彼は、博之と名乗った。私と同じ、28歳。
私たちは何故か、すぐに親しくなった。きっと、隣にいるはずのもう1人がいないことへの、同じような喪失感があったせいだろう。
そして、飛行機を降りた後。
私と博之はようやく、同じツアーに申し込んだ人間同士であることを知った。スペインの有名な観光地をまとめてめぐるツアーで、泊まるホテルも夕食も同じだ。向こうもそうとは思っていなかったらしく、テディベアをバンザイさせながら驚いていた。
似た者同士のせいか、私と博之は一緒にツアーを楽しめた。自由時間も一緒に行動し、あちこちで私は博之とテディベアが並んだ写真を彼のスマホで撮りまくった。
一見したら、そういうのが趣味のカップルに見えたかもしれない。
「ふふっ、あいつとだったら、こんな風に楽しめなかったろうなぁ」
2日目の夜のレストランは、このあたりで観光客に人気だという食堂だ。赤ワインを4杯飲んだ私は、すっかり顔が赤かった。
「楽しめなかった、というと?」
「……彼氏にフラれて、それで旅行が1人になったの」
「……なんと」
パエリアを口へ運びながら、博之が頷く。
博之は、見た目は結構、芋っぽい感じの青年だ。黒縁眼鏡に、もしゃもしゃの黒髪。なんていうか、大学でバンドやってそうな感じの雰囲気がある、サブカル系の男子。
でもそんな博之の肌は、私から見てもツヤッツヤで綺麗だった。
レストランの明かりの下でも、よく分かる。
「真実の愛を見つけたんだって。その真実の相手ってのが、私の後輩でさぁ。彼女と付き合うから別れろって言いだしたのよね」
「……真実の愛」
「そう、真実の愛」
「一周回って、新しいですね」
頷く博之は真剣な顔をしていて、私は笑ってしまう。彼の膝上で、テディベアが同じように揺れていたせいだ。
「結婚するつもりもあった相手でさ。だから、ちょっとね」
「……旅行、楽しいですか?」
「ええ。あいつと来るより、数倍楽しい気がするわ」
「なら良かった。ねぇ?」
そう言ってテディベアに話しかける博之もまた、どこか嬉しそうに笑うのだった。
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