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午前中の仕事がようやく終わり、やっと休息がとれると思った矢先にお母さんから電話がかかってきた。
「買い物をしてきて欲しい。新しい下着と靴下、歯ブラシとブラシにタオル。
それから、スイカに缶コーヒーを至急お願い」
「夕方そっちに行く時に買って行くよ」
そう返事して切ろうとすると、
「何を言ってるの。今すぐよ。そんなに待てないわ。早く買って病院に持ってきてちょうだい」
そう言って、お母さんは一方的に電話を切った。
最近、お母さんは私のことをこき使う。
まぁ、大変なのはわかるけど。
買い物に出かけるため家を出ると、外はどんよりとした空模様だった。
玄関に置いてある傘立てには、大きな黒い父の傘と桜色の私の傘が残っている。
傘を持っていこうか悩んだが、「まぁいいや」と持たずに出た。
近くのスーパーで頼まれた物を買い駅に向かっていると、生暖かな風と共にポツリと頭のてっぺんに大きな雨粒が落ちてきた。
空を見上げると、灰色の雲から次々と大きな雨粒が落ちてきた。
私は咄嗟に走り出した。
駅まではまだ遠い。
このままじゃびしょ濡れになってしまう。
どこかで雨宿り出来そうな場所を探しながら走っている、ちょうどテントのある古い二階建ての建物が見えた。
テントの下には古いが木のベンチが置いてある。
私は急いでその下に逃げ込んだ。
雨粒をはらい、内側からカーテンが引かれたガラス戸の隙間から中を覗くと、そこには棚と埃と蜘蛛の巣だけが見えた。
人の気配もなく、長い間放置されている様子だった。
だけど、私はこの店を知っていた。
優しい老夫婦が営んていた小さな駄菓子屋。
可愛いペンや香り付きの折り紙なんかも売っていた。
幼い頃、私は友達とよくここに遊びに来た。
僅かなお小遣いでお菓子を買い、日が暮れるまでこの店の前で遊んだ。
そして、帰りが遅い私をいつもお父さんが迎えに来てくれた。
私はいつも傘を持たずに家を出て、雨に降られてしまう。
今みたいに。
そんな時もお父さんは必ず迎えに来てくれた。
傘を一本だけ差して。
私の分は忘れちゃう。
「あたしの傘は?」
そう尋ねても、お父さんはただ微笑んで「帰ろう」と手を差し出す。
私はその手を握り、お父さんの傘の下に入る。
ある時、聞いた。
「どうしていつも一本なの?」
お父さんは照れくさそうに、「これがいいんだ」って私と繋いだ手を見せた。
きっと、娘と相合傘がしたかったのだろう。
隣で歩いていたお父さんの顔は、どこか嬉しそうだった。
でも相合傘のせいで、私が雨に濡れないようにと傘を私の方へ傾けるせいで、
お父さんの肩はいつもびしょ濡れ。
お母さんには洗濯物が増えるって叱られていた。
中学生になってからは恥ずかしくて、手を繋ぐことも相合傘をすることもなくなった。
お父さんのお迎えを、私だって心待ちにしていたのに。
懐かしいベンチに座り、そんなことを思い出していた。
雨はまだ止まない。
通りには水溜まりが広がり、誰も通らない。
雨の音だけが響いている。
母に連絡しておこうかどうしようか。
あー、お腹すいたなぁ。
私はベンチで膝を抱えながら、ふと目を閉じた。
ほんの一瞬。
それまで近づいてくる足音なんて聞こえなかったのに、目の前に誰かが立ち止まる足音が聞こえた。
「……みゆ」
私の名前を呼ぶ声。
目を開けて顔をあげれば、そこには大きな黒い傘を差したお父さんが立っていた。
えっ!お父さん?
私は驚いた。
「行くぞ」
そう言って、お父さんは私に手を差し伸べた。
その手を握ろうか少し戸惑ったけど、穏やかに微笑んでいるお父さんの顔を見て、私はその手を握った。
相変わらず、私の分の傘はない。
だから、お父さんと相合傘。
数年ぶりに、私はお父さんと相合傘で雨の中を歩いた。
「迎えに来てくれたの?」
コクリとお父さんは頷く。
「私、もう大人だよ?」
お父さんの肩は、あの頃よりもびしょ濡れだ。
私が成長したのだから当然だけど。
そういえば、お父さんの手ってこんなにもシワシワで細かっただろうか。
あの頃は、もっと大きくて力強かった気がする。
それにその手はとても冷たかった。
「お父さんの手、シワシワだね」
そう言うと、お父さんは寂しそうに笑った。
「お母さんに頼まれて、お父さんの好きなスイカを買ったよ」
「ありがとな」
「ねぇ。これからも、私のこと迎えに来てくれるよね?」
その問いに、お父さんは何の返事もしてくれなかった。
聞こえなかったのかな。
私はそう思うことにした。
「でも、不思議だよね。こうやってお父さんと相合傘でしかも手を繋いで歩くなんて。お母さん、驚くだろうな。だって、お父さんは」
言いかけた時、私の電話が鳴った。
同時に、あれだけ降っていた雨が止んだ
電話はお母さんからだった。
お父さんは私の手を離し、傘を閉じながら一人歩き出した。
「お父さん、待って!」
お父さんは振り返らず、曲がり角を曲がってしまった。
電話に出ながら、私はお父さんの後を追いかけた。
でも、お父さんの姿はなかった。
同時に、電話の向こうでお母さんは泣きながら言った。
ーお父さんが息を引き取ったよ。
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