ミルク買うブルース ……1

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ミルク買うブルース ……1

何をするでもなくカウンター裏の丸椅子に座ったアタシはプレーヤーで回転するレコードを眺めていた。値札を付け、品出しをし、ネット販売で購入したお客への配送業務をも済ませ、もうレコードを眺めるぐらいしかすることはなかった。  昨晩から降り続く雨で、客足もまばらなうえ、それもとっくに途絶えていた。カウンターには読みさしの文庫本が開いたままで伏せてある。ウィルフォードの『危険なやつら』だったがいくら読み進めてもちっとも連なりとして文字が頭に入ってこなかった。つい先日までは最高にハマっていたんだけど。行間に溢れ返る不穏が愛しかったのに、この数日はちっともダメだ……。  アタシは回転するLPを眺めている。それしかすることがない。もっとも、音の方も全然入ってはこなかった。  『ザ・サーク/ネオン』  シンプルなのにマジカルなサウンドで、マジお気に入りなんだけどさ。ロックでもアタシを救えない日だってある。まー、アタシの側の問題なんだけれど……。  昨晩早くに振り出した雨が、何故だかアタシに赤羽での一件を思い出させ、それを引き金にこうなったのだった。こんなアタシを世間ではこう呼ぶのだろう、ダウナーって。  昨日の晩から放置プレイなスマホを取り上げてみると、時刻は17時半だった。未読のメール数件をチェックする。急ぎの案件はなんにもないなかで、一通だけ興味を引くメールがあった。フィルムモアからのお知らせメール。リョウ兄さんが運営しているモグリの映画上映会、そのお知らせだった。今日は午後6時からの2本立て。なんだか良く分からない組合せだ。リョウ兄さんが今観たいのがこの2本なんだろう。系統だっての特集上映を組む時もあれば、ごちゃまぜ感を楽しむ時もある。今晩は後者って訳だ。1本500円のお楽しみ。VHS、DVD―R、DVD、ブルーレイ……実際のところフイルムでの上映は一切ない。  「なにが、フィルムモアだよ」って突っ込んだら、「フィルモアをもじったんだぜ、イカすだろ」ってなレス。言われてみれば確かにイカしているような気がしてくる。なんてったってロックの聖地〝フィルモア〟だ、なんだかちょいと上げてきたかも……。  1本目『エロティックな関係』  2本目『アウトロー』  急げば2本観れるけれど、小腹も減っているし8時からの2本目に狙いを定めることに決めた。アタシはトム・クルーズの走り方が好きなのだ。あの何かから逃げている風にも、何かを追ってる風にも見えない、ただ純粋に駆けてる感が堪らない。にも関わらず『アウトロー』は未見だったのだ。  「よしッ」  そう口にしたアタシは腰を上げ、シャッターを下ろしに向かった。とにかくこういう時にはじっとしているのは良くないし、放っておけば碌でもない事態を呼び込みかねないのを嫌という程この身体が知っている……。  という次第でじきにアタシはスマホに財布にウォ―クマンだけを手に店を後にした。  隣の部屋で絶賛上映中の『エロティックな関係』はリョウ兄さんお気に入りの78年のオリジナル版『エロチックな関係』ではなくて92年のリメイク版だった。  そうそうアタシは今、店から10分程離れた、早稲田通り沿いの脇道を曲がってすぐの所にある古びた4階建てのビル吉川ビルの2階で、廊下に二部屋並んだ右手側、ロビー代わりの部屋に設えられたカウンター席でコーヒーを啜りながらサンドウィッチを頬張っている。セットで500円の価格設定。勿論アタシはロハだ。据え置きのコーヒーメーカーは、とある筋から流れてきた最新式で、サンドウィッチ(とあるコンビニ製)の仕入れも、とある筋の大元たる吉川の会社から上映会向けにロハで、廻してもらっているので金銭的な出費はなかった。そうしたロビー業務の諸々を取り仕切っているのがルミ姉さんだった。  さっきまでカウンターのなかで作業をしていたルミ姉さだったが、今はアタシの隣のストゥールに腰掛けて同じくコーヒーを啜っていた。二人ともモチ、ブラック。で、二人ともアンビバレントな感情に支配されている。 そう、今晩があの日だったのを、スッカリ失念していたアタシだったのだ……。  ついさっき上映開始後、十数人の客が隣の劇場へ足早に向かうのを待って、今のアタシの状況をルミ姉さんへ話し始めたらもう立て板に水で止まらなくなってしまった。そう、とことん姉さんに甘えていたし、いつもの晩ならそれもまた許された。が、今晩のルミ姉さんは、ここで話に割って入った。  「その話、長くなる? 悪い、今晩アタシ支払いなんだ……」  今晩があの日だったと、そこで気付いたアタシだった。いつもあの日にはこうして姉さんが出掛けるまでの間、コーヒーでとりとめのない話をだべってやり過ごすのがアタシ達の習慣だったから、ダウナーになってスッカリそのことを忘れていたにも関わらず、結局のところこうして顔を出したところをみると、形は違えど、それも必然であったのかもしれない……。  「そんなにそのJKが気になるわけ?」  「えぇ?」  ふっと我に返ったアタシへ、再度問いかけてくれた一見は優しい姉さんへこう答えた。  「そーなのかな、やっぱ」  「サキ、あんたさ、ううんアタシもだけど、お互いその赤羽のJKなんかより、もっと派手に自分の身体を武器にしてシノギをしていたんじゃなくて? ま、アタシは今晩もそうですけどねぇ……。だからさ、人様が同じようなことをしてたらしいからって、なんやかんや言う筋合いはなくってよ」  「道徳垂れたいわけじゃないけどさ。あの娘に聖水は似合わないっていうかさ、なんか、そう、アタシなんかとは違う匂いがしたんだよねぇ、あの娘は」  「そーかー? 人は見かけによらないってねぇ。でもさ、そもそもその聖水野郎に買われたって決まったわけでもないしさ」  「なら良いけど。ああいうのはさ、人選ぶじゃん? うちらは選ばれますけど、あの娘にはさぁ……あらら、本当だね、アタシ気になってんだな、あのJK。バッカみたい」  「ようするにさ、それがアンタ。サキってそういう女なんだよ。アタシはそんなアンタだから肩入れして、あんなシノギから抜けさせて……。つまりさ、アンタが好きなんだ、アタシは。だから、本日、今晩アタシとサキが関係を再認識するのに役立ったんだよ赤羽行きは。はい、終了」  そう打ち切ってカウンターへカップを置いたルミ姉さんは、ストゥールから降りると、アタシの腰をチョコンと突いて、玄関ドアから出て行った。  アタシはルミ姉さんの言葉を考えていた。確かにアタシという女のコアな、譲れない、それを失えばただのヤリマンじゃんって言わざるを得ない、普段は心の奥深くに埋まっている不発弾のようななにか……そう、とっくに分かっているそんな事でも信頼する誰かに直接言ってもらうことで安心できる場合もあるっていう……。うん、メンド臭いんだよ案外、アタシ。  その男は吉川という。その昔、この男が最初に手掛けたビジネスだった神楽坂のロック・バーでDJとして雇われたのがリョウ兄さんで、その時以来深く静かに関係が続き今に至った。例のパッケージ業務もこの関係から下りてくるバイト。実際経営センスに恵まれていたらしい吉川は、その後、事業を多角化し、グレイゾーンに属する業種を手広く扱うことで、ちょっとした街の総合商社みたいに成りあがっていた。  と、奥にあるトイレから戻った吉川が、隣のストゥールへ腰掛けた。さっきまでルミ姉さんが座っていた場所。慣れた手付きで目の前のカップをコーヒーメーカーへ運ぶと、中身を満たし、美味そうに一口啜ってからこう言った。  「アウトロー、観てないって?」  「邦題のせいよ。イーストウッドの傑作あんのに」  「いいぜぇ、この写真。アレが出てんだよ、ほら、アレ……地獄の黙示録のさぁ」  「マーティン・シーン? ラリー・フィッシュバーン?」  と、宮沢りえのフランス語が高まった。アタシ達はそれに釣られたわけでもないけれど、二人して同じ方向に顔を向けた。劇場とこちらを仕切る壁、その玄関寄りにあるスライド・ドアからリョウ兄さんが入って来るところだった。じきにドアは閉まり、宮沢りえの声も小さくなった。近付いてくるリョウ兄さんと吉川が頷き合った。取り残されたアタシ。近付いたリョウ兄さんは、そのままカウンター内へと入り込んで屈みこむと、ウィスキーのボトルを手に身を起こした。  「リョウさんさ、あれだれだっけ?」  リョウ兄さんがラッパ飲みしたボトルを吉川へ差し出すと聴き返した。  「何がです、社長?」  吉川はコーヒーへウィスキーを垂らすと、ボトルを返してこう答えた。  「アウトロー、に出てるほらッ!」  「あぁ、ロバート・デュバル、ですか?」  「そうそう! 知ってんだろ、サキなら?」  「知ってますって、ナパームの彼。そっか、やっぱり観ていこう」  と、玄関ドアが静かに開く音がした。どこか官能的なその響きに顔を向けたのはアタシだけ……。着替えを済ませたルミ姉さんが入って来たのだ。さっきまでユニクロの黒のセーターにデニムとスニーカーだった姉さんは、上下ピンストライプのジャケパンにハイヒールを合わせ、髪はお団子にまとめたうえでの派手なパフュームと、まるでいつか観た昔の姉さん主演のOLモノAVみたいな出で立ちだった。  きっと、その頃からのファンが吉川の会社へ大枚はたいて姉さんを買ったのだろう。かなりの支払いのはずだ。このビルのローン分を差し引いても吉川への取り分がそれなりに残るぐらいには……。 続く
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