もう勝ってくれなくていい

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もう勝ってくれなくていい

――怖くはなかった?  幽霊の父さんとオセロをする、というと皆そう訊きます。角をとらされたら必ず隙間に急所ができているように。 ――真中さんって呼んでるの。  だから私は数手先の返事をして、反応の選択肢を増やしました。取れるマス目は多くないとおっかないですから。 ――角をとれたって喜んでたのに、隙間に入られてもう一方も二方も角とられることあるでしょう。あの隙間のこと、うちじゃ真中さんって呼んでいるのよ。  名前を付けたのは? 勿論私です。名前でも付けないと恐ろしくって。 ――どうして幽霊として出てきてすることがオセロなの?  この質問は最後の一手です。私の返事は白黒の枚数を数える行為、父さんが絶対にやらないことです。父さんは決着がつくとき傍に置いたメモに数字を書きました。外れていたことは一度もありません。 ――必ず負けるのよ。  だからです。  私が毎夜、幽霊になった父さんとオセロをする理由は。  私は父さんの生前、オセロで父さんを負かすことはありませんでした。 ――柳の下は満員だった。  毎晩、深夜日を跨ぐとき、父さんは暗がりの書斎に現れます。オセロ盤の手元だけをランプで切り抜いて。 ――私の柳の下はここだ。  と、白い三角巾もしないで手を幽霊にしてみせます。 ――この部屋、好きにしてくれていいって母さんに伝えてくれ。 ――自分で言えばいいのに。  そう言うと、父さんは照れたときの癖で顎髭を目方量るみたいにして、聞こえないほど小さな声で言いました。 ――あいつには勝てない。  私と父さんはオセロをしました。  必ず、父さんが勝ちました。  初めてがいつだったのか、覚えていません。  これまでに何百回対戦したでしょう、わかりません。  私は夏場にカルピス、冬場に紅茶を飲みました。成長につれて、角砂糖の個数は減り、大学生になってゼロになりました。  父さんは一年中お酢を飲んでいました。健康のために。 ――ハツコとオセロのときに飲めば忘れないから。  そう言いながら、最初の一手を打った後、一気に飲み干します。 ――美味しい物飲めばいいのに。  私が顔しかめて言っても、父さんは嘘の泣き顔で、 ――美味しいもん。  とホントのことは言ってくれませんでした。  私がお酢を飲んだのは一回だけ。 ――体が柔らかくなるぞ、疲労回復効果があるんだ、ダイエットにもいい。お肌にも、ハツコもいつか曲がり角に来る前に、距離を稼ぐのもいい。  父さんに何を言われても誘いに乗らず。 ――カルピスの方が健康にいい!!  の一手で防いでいたんですけどね。 ――喉ににゅるにゅるが残るだろ? カルピス。  あ、お酢の勧誘に失敗してカルピスいじめに移行するのか? と父さんを卑しく思ったんですけど、そうじゃなかったから。私は、一回だけお酢を飲みました。 ――お酢を飲んだ後もあれ、微妙に感じるんだよ。 ――そう、なの?  ビリビリ、鼻をつまんで飲んでも一口一口刺激的なお酢。幽霊を相手にオセロをすることに感じなかった分の刺激がここぞとやって来たのだと思いました。  父さんは嘘を言いません。 ――うん、ちょびっと、にゅるにゅる、ある。 ――でしょう。  と、父さんは角に黒置いて、ニコっと微笑みました。盤面に走る黒、私は必ず負けるのです。 ――じゃ、お父さんの幽霊は佐山さんがオセロに勝ったとき、出なくなるのかしら?  だと、思いますよ。いつになるか、わかりませんけど。  とらされているんです。  父さんとオセロをしていると、後半からそれがハッキリわかります。  私が選んだはずの一手は、父さんが私に打たせた一手、なんです。 ――門限は、守った方がいいぞ。  角の斜め手前のマスを私たちは門松と呼びます。あの門松は諸刃の剣です、幸せなお正月家族であるなら良し、そうでなければ寂しく雪が積もるだけです。 ――カラオケで盛り上がっただけなのに、母さんは信じないんだもの。 ――母さんに心配かけなさんな。  夏のカルピスは氷とストローがセットになっていて私が大人になっても変わりなく。 ――ボーナスで母さんと屋久島に行くの。 ――ありがとう。 ――どう、いたしまして。  氷が溶けてもカルピスは溢れない。そのことが私には悲しく思えました。砂時計と同じです。何かが減っても何かは増えているのです。父さんが死んだのが私、十六のこと。何度も夏が来て、父さんは毎年同じ話をして。 ――ラジオ体操の帰りだったな。 ――また、その話。 ――私は気持ちよく寝ていた。それはそれは気持ちよく。 ――もう。  父さんは大袈裟に言います。 ――読みかけの本を顔に被って、朝の風が窓から心地よく入っていた、夢の中で空豆を剥いていた。お婆ちゃんの手伝いで、私の夢の中では一等ほのぼのしたやつだ。 ――はいはい。 ――夢はハツコの一撃で崩落した。今でも私は城跡をみるのを好まない。 ――はいはい。 ――本を叩いたんだ、君は。 ――蝉の抜け殻を、あげたかったんだもん。父さんに、プレゼントよ。 ――芥川龍之介全集、羅生門が私の顔に降り注いだ。下人になった私の手に空豆は白く細い髪の毛に。 ――まっさか、本叩いたぐらいで物語が落っこちるとは、ははは。 ――蝉の抜け殻はどうしてる? ――ありますよ。今でも、瓶の中に。どうやって入れたの? ――それは秘密。  ラムネ瓶の入口よりも大きな体積の空蝉は、破れたら縫えない脆い体でどうやって瓶の中に滑り込んだのか。考えても出てこない答えは、勝てないオセロに似ていました。 ――娘が、できるの。  幽霊父さんとの勝てないオセロに、私が勝つとき。  それが、父さんと、お別れをするとき。 ――相手に何かで勝つのって、怖いこともあるでしょう。 ――そうですか?  そうですよ。負けていれば、背負いこむこともないのよ。あなたの方がお上手です、お任せしますってね。  一手一手、私の白い丸は父さんに打たされていた。毎晩、負け続けた。有り難かった。ちゃんと、負けられる。ちゃんと勝ってくれる。父さんは、私の父さんでい続けてくれた。幽霊になっても。 ――私もお爺ちゃんになるんだな。 ――ええ。  父さんは私のお腹に手を伸ばそうとして、やめました。  父さんの手はオセロやお酢の入ったグラスにしか干渉できないようでした。  私にはさっぱりわからなかったんです。  どうして、相手を自分の思うままに動かすことができるのか。  父さんはオセロの名人でテレビに出てくる将棋の棋士みたいに、頭が良いのだと思っていました。  でも、そうではなかったのです。  私は父さんの娘で、父さんは幽霊でした。 ――名前に一字、貰いました。 ――義之君は快く思っていないと思うぞ。 ――そんなことないよ、あの人は。 ――そうかな。 ――今日は、勝とうと思います。 ――うん。  父さんの手が透けていました。  真中さんも門松も、私の味方でした。  一手一手、打つ一手先を私は打っていました。父さんが打つ手を。 ――爽太。いい名前だろう? ――最高。 ――爽香も、最高だ。 ――うん。  これからは、私が爽香に勝ちます。父さん、この書斎に毎晩いられるのも今日で最後。義之さんは我儘聞いてくれたもの。父さんの一字、最高の一手。  白で盤面が覆われていく。ひとつ残らず、計算の必要もない。 ――ありがとう、父さん。 ――ああ。 ――もう、勝ってくれなくて、いいのよ。 ――ああ。  父さんが髭の目方を計るような仕草をして、私の顎を触った。  預けた私の頭は三千四百グラムの産声を、あげました。   ――やっぱり、佐山さんが勝つこと、それがお父さんとの決別だったわけね。 ――それがねぇ。 ――え?  私とは別れたんだけどねぇ、父さん今も出るらしいのですよ。書斎に。今度は母さんとオセロ打ってるって。  母さんに勝つまで、消えないみたいよ。     
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