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だが、それ以降、元気がなくなり、何かする意欲がなくなる反面、前にも増して僕の言う通りにしてくれなくなってしまったので、僕も反省してなるべく怒りを抑え、父さんには優しく接するようにしている。
「さて、せっかくの温泉だし、僕はお風呂に行ってくるよ。父さんはテレビでも見てゆっくりしてて」
いつものことながら、父さんがお茶にもお茶菓子にも手を付けないままぼけっとしているので、僕は父さんをそのまま置いて、この宿自慢の露天風呂へ入ることにした。
いつの頃からか、父さんはどうも肌が弱くなってしまったらしく、お風呂は苦手なのだ。前に一度入れた時なんか肌がふやけたようになってしまって大変だった。
だから、今は感染症対策なんかも鑑み、たまにアルコールも含ませた水タオルで拭いてやるようにしている。
「じゃ、行ってくるけど、おとなしくしてるんだよ? リモコンはここにおいとくから」
お風呂に行く準備をして父さんのためにテレビを付けると、僕はそう断りを入れて部屋を出る。
旅館とはいえ、高齢者が一人というのは不用心なので、もちろん鍵をかけてだ。
まあ、戸尾さんに放浪癖はないので、その点は安心なのだが……その代わり、少々惚けが進んだのか、ほんとに時分から何かやろうという意欲がない。一応、ああ言って声をかけたが、おそらくテレビも僕が選んだ番組をそのまま変えずに見ていることだろう。
「…………?」
そんなことを考えながら大浴場のある別館へと向かう廊下を歩いていると、宿の仲居さんが二人、仕事の合間に世間話をしているのが聞こえてきた。
「――さっき来たお客さんのこと聞いた? なんか気味の悪い覆面をした人負ぶってたんだとか。その覆面の人は一言も話しないっていうし」
「聞いた! 聞いた! チェックインの時にもずっと負ぶったままだったそうじゃない。あたしの感だと、きっと何かあるね」
いかにも噂話が好きそうな中年の仲居さん達で、周りに宿泊客がいないのをこれ幸いと、おしゃべりに夢中になっている。
耳に入ったその内容からして、十中八九、僕らのことを言っているのだろう……無論、不愉快でないと言えば嘘になるが、これもいつものことだ。今さら腹を立てても仕方がない。
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