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「……はっ! ちょ、ちょっと……」
「……あっ! ど、どうもぉ……ご、ごゆっくりぃ~……」
むしろこちらの方が気を遣って素知らぬ顔でそのまま歩いてゆくと、ようやく僕の存在に気づいた二人は大きく目を見開き、下手な誤魔化し方をしてそそくさとその場を去っていった。
僕がそのお客本人だとまでは知らないだろうが、宿泊客の噂話に花を咲かせていたところを見られ、さすがに気まずかったのだろう。
毎回のことなのでもう諦めているが、なんだかなあ……という感じだ。そんなに覆面をした父親を背負った旅行客が珍しいだろうか?
旅行の度に体験するこうした憂鬱な人々の反応であるが、それでもこの宿の素晴らしい露天風呂は、そんな僕のどんよりとした曇り空ような感情を晴らしてくれた。
広い浴場に他にお客はいないので僕の貸し切り状態。借景にしている奥山の緑も美しく、まるで自然の中に沸いている温泉に入っているかのようだ。
「父さんも入れてあげられればいいのになあ……」
この贅沢な感覚を独り占めするのももったいなく、そんなことも思ってみたりもするのだが、やはり父さんの体のことを考えると、ここはお互いに我慢するしかないであろう。
「さて、いつまでも父さんを一人にしといちゃかわいそうだし、そろそろ上がるかな……」
それほど長い時間でもなかったが、温泉を充分に堪能した僕は露天風呂を出ると、軽やかな気分で父さんの待つ部屋へと向かった。
…………ところが。
「……あの? 何してるんですか?」
部屋へ戻ってみると、今度はこの宿の青い法被を着た男性従業員が入口の引き戸にぴったり体を付けて立ち、明らかに戸の隙間から部屋の中を覗こうとしていた。
「うわっ! ……い、いえ、別に……あ! そ、そうです! お夕飯は何時にお運びすればいいのかなあと思いまして、そ、それでお窺いをたてに……」
目を細めて僕が声をかけると、彼は今にも腰を抜かすほどにびっくり仰天して、しどろもどえろになりながら言い訳をしている。もっともらしい理由を思いついたらしいが、もう「あ!」とか言っちゃってるし……。
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