西の空にて

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西の空にて

 男は紅玉に燃えるさそり座のアンタレスを越えて、星々の谷間を()せていた。随分遠回りをしてしまったと、己が道を振り仰いで思う。  けど天の川を越えるのはあまりにも危険だったから。  ヘラが零したというミルキーウェイは、今もなお、彼女の嫉妬という毒でその色を変えていた。貞淑を司る女神の所業は、数千年を経ても畏怖と尊敬を込めて未だ語り継がれる。  男は苛立ちと焦りを滲ませ呟いた。 「急がないと」  男は衣を(ひるがえ)して走る。いつか、妻が織った壮麗な婚礼の衣装を太陽風にあそばせて。蜜月に受けた罰は、愛し合う彼らを幾度も裂いては(さいな)んだ。  男は思う。  何故、年に一度の逢瀬しか出来ぬのか。  夫婦(めおと)となれと決めたのは、他ならぬ妻の父、天帝であったろうに。  多少の不労働で我らを東西へ断ち、姿を見る事すら叶わぬという刑を、俺は断じて(ゆる)しはしない──!  千年の時が流れても、男の胸には憎しみの炎が消えることなく(くすぶ)っていた。  それは、女も同じであった。 「急がなくては」  女も自らが織ったかつての婚礼衣装に身を包み、爪先立ちで星の()()にを縫っていた。禁を破ったが為に引き裂かれたエウデュリケ(つま)(しの)んで奏でられるオルフェウス(おっと)(たえ)なる琴の調べから(のが)れ、世にも美しい羽衣をたなびかせて。  女も思う。  どうして、夫婦(めおと)であるにもかかわらず、共に暮らしてはいけないのでしょう。  あの輝かぬ人々と同じように、(わたくし)とてずっとあの方のお側にいたいのに。  それまで逆らうことなく父の命ずるまま生きてきたけれど、永劫に課されたこの理不尽な罰を、(わたくし)は決して許しはしません──!  新婚の幸福絶頂の最中(さなか)に父から受けた仕打ちを、女は悲しんでは(うと)んだ。  女は足下に広がる星影を見下ろした。三百六十五日に一度の、約束の(とき)が迫っていた。彼女はもどかしいばかりに歯噛みをする。女は天の川と呼ばれる光の橋を渡れないことを心底悔やんだ。せっかく、空を浮かぶ星屑を(すく)っては集めてを、千年繰り返して完成させた物なのに。  今宵のシリウスは、あんなにも遠い。 「気付いてくれるだろうか」 「気付いてくれるかしら」  『貴方』と初めて会った時に着ていた、この衣装に。  嗚呼、きっと気付いてくれるはず。  そう願いを込めて、今夜この天の服を選んだのだから。  すぐに『貴方』に、判るように。  何処に居ても、一目で見付けられるように。  ……『貴方』に恋に落ちた、あの日のように。  忘れはしない。  『貴方』と祝言を挙げた、あの日のこと。   ──妻となる人の、正に天女そのものの笑みを   ──夫となる人の、カササギに似たその笑顔を  世界が『貴方』から始まって、華やかに鮮やかに彩られた。言の葉を交わし、見つめ合うだけで(よろこ)びに満ち満ちた日々。  あの日、『貴方』と夫婦(めおと)となったその日から、  ──俺の  ──(わたくし)の  世界に、色は絶えない。 「貴方を……待たせはしない」 「貴方を……待つのはもう嫌」  だから、行くと決めた。  自分たちはいま、星の軌道を変えるほどの大罪を犯そうとしている。天帝に知られれば、今より重い刑が待っていることだろう。  ……でも後悔はしない。  それほどまでに『貴方』をお慕い申し上げているから。 「あと、もう少しだ」  目指すはこと座。ベガの星。天の川をぐるりと迂回して、男はようやっと此処まで来れたと息をつく。上がった息を整えていると、男に声を掛ける者がいた。 「はじめまして。わし座の一等星・飛ぶ鷲(アルタイル)。夏の大三角の輝けるよ」  男は初めて、かのアスクレピオスと相対した。アスクレピオスは神の血を引く者特有の優美さを漂わせながら、丁寧な物腰を憤然と変えて、話し出した。 「お前たちが動いたせいで、あのゼウスに、もうひとつの一等星・落ちる鷲(ベガ)が捕まった。木星の第三衛星(ガニメデ)に飽いたゼウスがを攫うのだ。どうなるかは見当がつくであろう?  急ぎ天の川へ北上し、白鳥を射ろ!」  蛇使いの男はそう言って、いて座(ケイローン)の物だという弓矢を男に与えた。  聡明な彼は、玲瓏(れいろう)な衣装を纏った無謀な男に讒言(ざんげん)を残す。 「師匠(せんせい)の弓なら、矢を引くだけで命中するだろう。まったく、お前たちは大変な事をしていると自覚はあるか? ……いや、知っていてもお前たちはその道を選んだのであろうよ。ああ、(わし)には恐ろしくて仕方がない。  永遠(とわ)(きら)めける星を捨ててまで、恋に狂えるお前たちを」  さりとて、星の命も不滅では無い。生まれた惑星の質量によって、その寿命は定められている。重ければ短くも絢爛(けんらん)な、軽ければ慎ましくも長命な──それは誰にも変えられない宇宙の真理だ。だが星の寿命など、恋に生きる者にはなんの価値もないのだと思い知らされる。  アスクレピオスは、そんな星々を内包して、優しく微笑んでみせた。  別の道を生きようとする若者を、祝福するかのように。 「だがそれを愚かだとは笑わぬ。そういう者たちを、(わし)は幾千幾万と見てきたから。  だから、(わし)からお前たちに良い事を教えてやろう」  そう言ってアスクレピオスは北を振り返った。燦然(さんぜん)と輝くアルゴー船の乗組員・英雄ヘラクレスがその視線に気付き、逞しさも(あら)わに手を振った。 「堕ちる星がどうなるか、お前たちも知っているだろう? 同じ星図を彩る友の最期を看取(みと)るだなんて、医者として(わし)はどうしても寛恕(かんじょ)出来んのだよ。  良いかアルタイルよ。狙うは一等星のデネブだ。  北十字星(ノーザンクロス)の交わる二等星・アルビレオを(しゃ)してはならん。  そして、お前がその弓で白鳥を射たら、彼女を連れて東のヘラクレスを頼れ。ペルセウスに会い、流星群を利用して逃げると良い。ただし、条件がある」  偉大なる医者は両手に永遠の命の象徴・蛇を持ち、死すら越えて男に厳然と言った。 「決して、振り返って妻の姿を見てはならない。何故かは知っているだろう? 『彼』のようになりたくなくば、この条件を守り切ることだ」 「何から何までありがとう」  男は心から礼を言い、弓矢を肩に掛け、天の川目指してひた走った。背中にへびつかい座の声が掛けられる。 「が鳴り終わるまでに、流星に乗るんだ。  そうすれば、お前たちの願いは叶う!」  初めて会った友の力強い声援を受けて、勇者と成った男は毒々しい色彩を放つ川に沿って昇っていく。己が星座すら遥かに越えて、男はやがてはくちょう座へと辿り着いた。
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