北の宙では

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北の宙では

「───っ‼︎」  夜空に静寂を切り裂くがごとく悲鳴が届いた。甲高い女性の声でその男の名が、彗星みたく長い尾を引いた。男にはそれが愛しくてたまらぬ妻なのだとすぐに気付く。  導かれるように足を早めれば、天の川のほとりで襤褸布(ぼろきれ)のようになった花嫁衣装を必死に掻き集め、貞操を守ろうとする乙女がいた。  そこでは今まさに、ゼウスの化身がその淫らな(くちばし)を姫に伸ばしていたのだ! 「ッ、白鳥よ──!」  果たして、彼らよりも遥かに巨大な超巨星が、そこに居た。男は矢を(つが)え、(つる)を引き絞った。キリリとした弓の軋み……男が右手を離せば、ビュッと真空に穴を穿(うが)ったかのような音のあと──(おす)の野太い悲鳴が響き渡った。 「行くぞっ!」  夫は顔を背けながら妻の手を取り疾駆した。美しき羽衣だけをまとった妻は、一年ぶりに会う愛する夫の後ろ姿を見つめ、からがら走る。  だが、我が(おっと)に弓引く背信者を、女神は決して逃しはしない。 「‼︎ 貴方、川がっ──!」  二人の足下では白く(けぶ)る川が、夏に終わりを告げる積乱雲のように凶々(まがまが)しく姿を変えていった。「天の川」とは、ガリレオ曰く、二千億以上の星の集まりであるという。その集まりが女神の毒と混ざり、巨大な、そして強大なブラックホールへと変わっていく。 「引き寄せられるっ!」  果てしない闇よりも、なおも深い漆黒を孕んだ深淵が、その(てい)を成しながら、喰らわんばかりに口を開いていく。男は女の腕を引きながら全力で天空を東へと急いだ。  男は駆けながら念じる。  振り返るな。  まだ。  まだ……!  たとえ手の届く寸前に追いつかれようとも。  俺よ、走れ。  前へ、前へ!  振り返るな‼︎   「振り切ってみせる。俺の手を離すな!」  息はとうにあがり、一晩中走り通しで足はもう走る事を拒んでいる。それでも男は歯を食いしばり、少しも衰えぬ速度で宇宙を疾走した。 「ヘラクレスッ!」 「応とも」  震える足を止めず、男は友に教わった通り英雄を頼った。数多の業績を残す神話の英雄は、精悍に豪快に、己が腰に渦巻く天体を指し示す。 「(われ)の球体星雲へ飛び込むがいい。あとは祖父に聞いてくれ。だが、一つだけ置いていって欲しい物がある」  申し訳なさそうに英雄は切り出した。時惜しく、男は「なんだ」とすぐさま返す。古代の英雄は女の羽衣と交換だと言った。女は即座に羽衣を取ってヘラクレスに渡した。 「せっかくの(よば)い星だ。消えるまでに願い事を三回唱えるのを忘れてくれるなよ。  では友よ。良き旅路を!」  大罪と知りながら、どれほどの星座(とも)が手を貸してくれるのか。会話すら初めての彼らを、神々はその温度とは裏腹にあたたかく送り出す。  背を押されるように、男と女は手を繋ぎ、明るく渦を巻く星雲へと飛び込んで行った。  残された神と神が真っ向から対峙する。 「もう一人の我が母よ。お久しぶりです」  怒りに染まった継母はその質量を増し、一層闇を深くした。変わり果てた女神に動じることもなく、血の繋がらない息子は手の中の布を見せて揚々と言う。 「天衣です。これを持ったままだと、彼らは『人』に転生できない。そうでしょう? 母上」  暗黒の塊はそう呼ぶなと言わんばかりに伸び縮みした。  皮肉にも「ヘラの栄光」と名付けられたゼウスの息子は、生前、何度となくその命を狙われても、この母を憎み切ることは出来なかった。 「星座となってから、母上(あなた)をこの(かいな)(いだ)けるとは思いませんでした」  沈むように重力崩壊を起こしている母を、子は優しく迎え入れ──そして……夏の星空はいつものように公転し、自転しながら、今日もさびしく(またた)いているのだった。
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