13人が本棚に入れています
本棚に追加
北の宙では
「───っ‼︎」
夜空に静寂を切り裂くがごとく悲鳴が届いた。甲高い女性の声でその男の名が、彗星みたく長い尾を引いた。男にはそれが愛しくてたまらぬ妻なのだとすぐに気付く。
導かれるように足を早めれば、天の川のほとりで襤褸布のようになった花嫁衣装を必死に掻き集め、貞操を守ろうとする乙女がいた。
そこでは今まさに、ゼウスの化身がその淫らな嘴を姫に伸ばしていたのだ!
「ッ、白鳥よ──!」
果たして、彼らよりも遥かに巨大な超巨星が、そこに居た。男は矢を番え、弦を引き絞った。キリリとした弓の軋み……男が右手を離せば、ビュッと真空に穴を穿ったかのような音のあと──雄の野太い悲鳴が響き渡った。
「行くぞっ!」
夫は顔を背けながら妻の手を取り疾駆した。美しき羽衣だけをまとった妻は、一年ぶりに会う愛する夫の後ろ姿を見つめ、からがら走る。
だが、我が神に弓引く背信者を、女神は決して逃しはしない。
「‼︎ 貴方、川がっ──!」
二人の足下では白く烟る川が、夏に終わりを告げる積乱雲のように凶々しく姿を変えていった。「天の川」とは、ガリレオ曰く、二千億以上の星の集まりであるという。その集まりが女神の毒と混ざり、巨大な、そして強大なブラックホールへと変わっていく。
「引き寄せられるっ!」
果てしない闇よりも、なおも深い漆黒を孕んだ深淵が、その体を成しながら、喰らわんばかりに口を開いていく。男は女の腕を引きながら全力で天空を東へと急いだ。
男は駆けながら念じる。
振り返るな。
まだ。
まだ……!
たとえ手の届く寸前に追いつかれようとも。
俺よ、走れ。
前へ、前へ!
振り返るな‼︎
「振り切ってみせる。俺の手を離すな!」
息はとうにあがり、一晩中走り通しで足はもう走る事を拒んでいる。それでも男は歯を食いしばり、少しも衰えぬ速度で宇宙を疾走した。
「ヘラクレスッ!」
「応とも」
震える足を止めず、男は友に教わった通り英雄を頼った。数多の業績を残す神話の英雄は、精悍に豪快に、己が腰に渦巻く天体を指し示す。
「我の球体星雲へ飛び込むがいい。あとは祖父に聞いてくれ。だが、一つだけ置いていって欲しい物がある」
申し訳なさそうに英雄は切り出した。時惜しく、男は「なんだ」とすぐさま返す。古代の英雄は女の羽衣と交換だと言った。女は即座に羽衣を取ってヘラクレスに渡した。
「せっかくの婚い星だ。消えるまでに願い事を三回唱えるのを忘れてくれるなよ。
では友よ。良き旅路を!」
大罪と知りながら、どれほどの星座が手を貸してくれるのか。会話すら初めての彼らを、神々はその温度とは裏腹にあたたかく送り出す。
背を押されるように、男と女は手を繋ぎ、明るく渦を巻く星雲へと飛び込んで行った。
残された神と神が真っ向から対峙する。
「もう一人の我が母よ。お久しぶりです」
怒りに染まった継母はその質量を増し、一層闇を深くした。変わり果てた女神に動じることもなく、血の繋がらない息子は手の中の布を見せて揚々と言う。
「天衣です。これを持ったままだと、彼らは『人』に転生できない。そうでしょう? 母上」
暗黒の塊はそう呼ぶなと言わんばかりに伸び縮みした。
皮肉にも「ヘラの栄光」と名付けられたゼウスの息子は、生前、何度となくその命を狙われても、この母を憎み切ることは出来なかった。
「星座となってから、母上をこの腕に抱けるとは思いませんでした」
沈むように重力崩壊を起こしている母を、子は優しく迎え入れ──そして……夏の星空はいつものように公転し、自転しながら、今日もさびしく瞬いているのだった。
最初のコメントを投稿しよう!