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「君には、もう勃たない」
昨夜、言われた。
ショックとか、そういうレベルの話じゃない。今まさに切腹しようとして、作法通りに脇差を取りあげて、その切っ先がまだ皮膚に触れもしないうちに介錯の太刀が振り下ろされて首根っこを叩き斬られたようなものだ。
「あ、そう……」と返すしかないじゃないか。
そもそもセンシティブな話だと思ったからわざと軽く始めたのだ。寝室ではなくリビングで、食後、洗い物も終えてソファでゆったりとくつろいでいる時間を選んで。
「ねえ、わたしたちって、もうだいぶ、してないよね」と、かるーく。
「えへっ、何を」
もっと軽い笑いが返ってきた。
ジャンケン、とか、縄跳び、と応えておけば、今日こんな気分にならずにすんだのか。
「あの、あれよ……、ほら、あの、夫婦の、あの、夜の……って、べつに夜でなきゃいけないってことでもないかもしれないけど、あの……、ほらあ、わかるでしょ」
「あ、ああ……。そうかな……」
そうかな? ない記憶を必死にたどってみたら約2年って結論なんですけど。まあそれだって、カレンダーに印をつけていたわけでなし、だいたい2年前のカレンダーなんて……。あ、いた。印つけてたやつ。中途半端な時期にうちのブランドにどこかから横滑りしてきたなんもできない女。スケジュールを合わせようとしたら、女子大生が持つような華奢なベビーピンクの手帳を出してきて、えーっとお、とか言うから、ちらと覗き込んでやったら、見開き1ヶ月なんてちまちました日付のところどころに、これもピンクのハートマークが散らばってて、あらかわいい、何そのハートマーク、って思わず口を滑らせてしまった。生理日だったらだいたい月にひとつのはずなのにと思ったからついこぼれた言葉だけど、言った瞬間後悔した。恐れていたとおり、いたした日ですよーチーフーぅ、って顔を赤らめることもなく満面の笑みで二の腕をぱんぱん叩かれた。新婚さん、って訊いたら、んーそうなのかなあ、3年、って言われて椅子からずり落ちそうになった。そういうのは携帯のカレンダーにすれば、と言ったら、だってえスマホ見られちゃうかもしんないからあ、ときた。今、手書きの手帳も見られちゃったんですけどお、という返しは飲み込んだ。挟んだメモやら付箋やらでぱっつんぱっつんになって、開けば色のついた書き込みはリスケジュールの赤いバッテンくらいっていう手帳がバッグのキャパの半分以上を占領していて通常と思いこんでいた当時32か3だったチーフさんの頭のなかには、虹色のクエスチョンマークがネオンサインみたいにびかびか光ってたもんだ。何者だこいつ、という印象どおり、なんもできない女だった。1ヶ月ほどして廊下で会った同僚に、どうだあいつ、と訊かれて言葉に詰まったら大笑いされて、使えねえだろ、と小声で言われた。黙れ横滑りもと、と胸ぐらつかんでやりたかったが、歩くブランド広告塔としてはせいぜい冷たく微笑んで、試されてるのかしらね、チーフの手腕、と言い捨てるしかなかった。1年経たずして、妊娠しましたー、辞めまーす、といなくなった時は、そういえばひとつの日付の箱にピンクのハートがふたつついてた日もあったと思い出しながら、女優になれ女優になれと心に唱えて、一緒に仕事できなくなって残念だわ、と懸命に声に出した。そう、あの女ならわかる、最後がいつだったか。
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