八月十四日-②

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八月十四日-②

 亡き人があってこそ、今を歩んでいる私です。  亡き人との縁を大事に、私が念仏申す者となりましょう。  亡き人のためではなく、今を生きる〝私自身〟のために——。  ◆ ◆ ◆  あれから三時間。  西の空は徐々に薄橙色に染まり、青空が切なさを帯びてきた。その切なさを助長するように、カナカナとひぐらしが鳴いている。とはいえ、今時分の午後五時は、まだ日が高く気温も高い。  夕飯の準備を開始するまでのあいだ、紫は外へ出て打ち水をすることにした。夏休みに入り、ほぼ毎日欠かすことのない日課。広大な敷地ゆえ、散水ホースが届くところはそれを使用し、届かないところは手桶と柄杓を使用する。  普段はおもに玄関と本堂前のみ涼をとっているのだが、この日は山門から打って回った。夏場は午後六時まで本堂を開放しているため、ともすれば、まだ参拝客が訪れる可能性がある。くわえて、盂蘭盆(うらぼん)真っ只中の今は、とくに墓域へと赴く檀家も少なくはない。  焼けた石畳の上。滲む汗を拭いながら、少しでも参拝客が訪れやすいようにと柄杓をふるう。そのたびに、叩きつけられる水の音が鼓膜にぶつかった。山門付近まではホースの長さが足りず、こうして地道に湿らせていくほかないのである。 「……こんなもんかな」  持っていた手桶に柄杓を入れ、空いているほうの手で額の汗を拭う。ついでに、首筋にまとわりつく髪を取り払うと、次の目的地である本堂前に爪先を向けた。  夕飯の献立は何にしようか。冷たくあっさりと冷麺にでもしてみようか。……そんなことをぼんやりと考えながら、一歩を踏み出そうとした。  その矢先。 「紫ちゃん」  背中越しに、自身の名を呼ぶ声が聞こえた。思わず肩がぴくりと跳ねる。  優しく、甘く、澄み渡った声の主は、慣れた様子で山門をくぐり抜けると、敷地の中へと——紫のそばへと、歩み寄ってきた。 「……響、さん……」  存在を確かめるように、自身に認識させるように、瞳に映り込んだ人物の名を口にする。独言のごとく零したその声は、驚きの色を含んでいた。  手桶を持ったまま立ち尽くす紫。動かない体とは正反対に、心臓は早鐘を打っていた。彼を避けていたわけではない。避けていたわけではないけれど、いざ対面してしまうと、何をどう話せばいいのかわからなかった。  気まずさが、ぬるい空気に混濁する。  そんな状況で先に口を開いたのは、やはり響のほうだった。 「紫ちゃん、今ひとり?」 「あ……はい。まだ、誰も帰ってなくて」 「そうなのね。……遅い時間で申し訳ないんだけど、本堂のお参りと、あと、お墓もお参りさせてもらっていいかしら?」 「え? あっ、も、もちろんです」  響の問いかけに、紫は二つ返事で了承した。言葉に躓きそうになりながらも、とにかく首を縦に振った。断る理由など、何もない。  これに対し、彼は『ありがとう』と(つや)やかに微笑むと、先に墓域のほうへと歩いていった。  いつもと変わらない表情、いつもと変わらない語調で話しかけてくれた彼の背中に、紫はただただ視線を送るばかり。胸が波立つ紫とは対照的に、彼が彼自身を歪めることは微塵もなかった。  亡くなった妹のことを想いながら、彼は墓参するのだろう。〝つらい〟なんて一言では到底表現しきれぬほどの喪失感を抱きながら。けれど、彼がその感情を表に出すことは、おそらくない。  紫は、彼の平静な言動を改めて尊敬するとともに、ほんの少しだけ羨ましく思った。自分も大人になれば、あんなふうに立ち振る舞えるようになるのだろうかと。  けれども後に、それがいかに浅はかな考えであるかということを、痛切に思い知らされるのだった。  寺の上空を、一羽の烏が舞う。バッサバッサと重い羽音を立てながら、庭で一番高い木を目指す。そのてっぺんに止まったまましばらくじっとしていたが、カアと一声だけ鳴くと、落ち着く間もなく飛び去っていった。  おまえはひとりだ——そう、言われた気がした。  それから十五分ほど経過した頃。  本堂前に移動し、ホースで水を噴射している紫のもとへ、響が戻ってきた。紫が慌てて水を止めるために駆け出すと、彼によってそれは制された。 「あっ、大丈夫大丈夫。そこの蛇口捻ればいいのよね」 「えっ、あっ、すみません……!」  長い腕が水栓柱へと伸びる。キュッキュという音とともに蛇口が閉められると、水圧が低くなり、やがて完全に水は止まった。  にょろにょろと地面を這っていたホースの引き上げも完了し、短時間ですっかり庭は元通りに。  紫は、何度も響に頭を下げてお礼を言ったあと、彼が本堂をお参りしているあいだに五百ミリリットルのスポーツドリンクを一本持ってきた。それは、先日檀家が持ってきてくれたお供えを冷やしたものだった。 「響さん、あの、これ」 「え? いいわよ、そんな! 大したことなんてしてないもの」  差し出されたペットボトルと紫の顔を交互に見ながら、響はこれを断った。手と首をブンブンと振り、言葉以上の意思を示す。それでも紫が引かなかったため、押し切られる形で受け取った。  本堂脇の階段に二人、並んで腰を下ろす。差しかかる屋根と樹木が陰を作り、打ち水も相俟って、かなりの涼しさを体感することができた。  あと一週間もすれば、朝夕の暑さはだいぶ和らぐだろう。  四日前に別れて以来、紫は響のことをずっと気にかけていた。自分がとってしまった態度のせいで、響は過去を話さなければならなくなったのではないか。そんなふうに思い悩んだりもした。自分のせいで……。  だが、今は不思議なほどに、自然と同じ時間を共有できている。抱えていたはずの気まずさも、いつの間にか薄れていた。響の持っている独特の空気——醸し出す雰囲気がそうさせていることは、自明であった。 「今日はお世話になりました」  改まった様子で響が告げる。頭をぺこりと下げると、さらりと流れた髪の毛が夕日に煌めいた。 「いえ、こちらこそ。それに、六時までにまだ時間はありますから、大丈夫ですよ」  何に対しての謝意であるかをすぐに感じ取った紫は、かぶりを振って頬を緩めた。自分が彼を迎え入れたのは、寺の娘として当然のこと。むしろ礼を言わなければならないのは、雑用を手伝わせてしまった自分のほうだ。 「あー、ううん。それも、なんだけど……」  しかし、紫の返事を受けた響の眉尻が下がった。口角は上がったままだが、幾分語調が暗くなったように感じられる。  響の口から次に述べられた言葉で、紫は、互いの認識が食い違っていたことに気がついた。 「妹の法要。おかげさまで、無事に済んだから」 「あ……」  紫が寺の娘であるがゆえの謝意であることに間違いはなかった。間違っていたのは、謝意の対象。  紫の心臓が、再び早鐘を打ち始めた。錆びた金属の軋む音が、耳の奥を鋭く引っ掻く。  自分の気持ちの整理がつけられていない今、いったい彼にどんな言葉を投げかければいいのか。正答などないとわかっているのに、それを切望してしまう自分が厭わしい。  夕日の輝きはしだいに色褪せ、ひぐらしの鳴く声が黄昏に溶け込む。落とし込まれた沈黙が、紫の双肩にずしりと圧しかかった。  今にも、押し潰されてしまいそうだ。 「紫ちゃんは、お母さん似?」  俯き、悶々としているおり。なんの前触れもなく、響からこんな質問をされた。あまりの唐突さに目をしばたかせるも、紫はなんとかこれに答えた。 「……え? えっ、と……はい」 「あ、やっぱり? なんとなくそんな気がしたのよね」  紫の肯定に、妙に納得した様子の響。単純に、(伯父である)父とは似ていないという理由から生じた疑問なのかもしれないが、彼の真意は顕ではなかった。  次の瞬間までは。 「……アタシもね、母親似なの」  彼の口から発せられた〝母親〟という言葉。このときのそれは、明らかに今までとは異なった〝重み〟を持っていた。  彼の貌から、笑みが消えた。紫に配慮し、どうにか柔らかさを保とうとしていることは窺えたけれど、抑えきれない悲哀がじわりじわりと滲み出ていた。  四日前の彼の姿が、今の彼の姿と重なる。耳の奥の錆びついた音は、間隔が短くなり、大きくなるばかりだ。  それでも、紫は心を決めた。  彼に、大きく踏み込むことを。 「響さんの……その……お母さん、は……イギリスの方、なんですよね?」  彼と視線を合わせることなく、やっとの思いで言葉を繋げた。緊張で口内が渇き、全身が強張る。  紫の口調は、けっして聞き取りやすいとは言えない、訥々としたものだった。 「そうよ。生まれも育ちもイギリス。父と結婚して日本に来るまで、一度も外に出たことがなかったの」  にもかかわらず、彼はしっかりと答えてくれた。少しも言い淀むことなく、はっきりと。  彼のその態度に感化された紫は、ここでようやく彼と視線を合わせることができた。緊張がほぐれることはないが、全身の強張りはいくらか緩和されたような気がする。  ところが。 「今は……イギリスに?」 「ええ。二十年前に父と離婚して以来、ずっとイギリスにいるわ」 「一緒に、暮らしてるんですか?」 「ううん。……アタシね、母と会ってないの。二十年間、一度も」 「えっ……」  紫の全身が、再度強張った。今度は、先ほどよりも、さらに激しく。  ……言葉を、失った。  紫のリアクションをすべて想定していたのだろうか。響は努めて頬を緩めると、自身の過去について静かに語り始めた。  まるで、暗い暗い水底に沈む、欠けた硝子玉を拾うように。 「母は、妹を亡くしてから、精神的に衰弱してしまって……今は、定期的に通院しながら療養してるって、祖父から聞いてるわ」 「……」  彼の母親は病んでいるらしい。心を、病んでいるらしい。  その原因は、紫の想像など到底及ばないほどに、惨憺たるものだった。 「あの日、妹は母に強く叱られて、それで家を飛び出して……その直後、事故に遭ったの」  二十二年前の今日。響の双子の妹——(アン)は、トラックに撥ねられて死亡した。小学四年生だった。  事故当時、響は自宅マンションにはおらず、祖父母とともに駆けつけた病院で杏の訃報を聞かされた。運び込まれたとき、すでに心肺は停止していたらしい。  突然散ってしまった愛する妹の命。そのときの気持ちは、たとえ千言万語を費やしても表すことなどできはしない。  けれど、悲しみに浸る間もなく、さらなる悲劇が彼を襲ったのである。 「母は、自分のことを責めたわ。家族は誰一人として母のことを責めたりしなかったけど、唯一母だけは、自分のことを絶対に許さなかった。父も、父方の祖父母も、みんな母のことをケアしようと頑張ったけど、結局母の心は壊れていく一方だった」  彼の母親は、連日連夜、泣き叫んだ。朝も昼も夜もずっと泣き崩れた。  砕け散った食器や花瓶、家じゅうから消えることのない涙の痕に、幼い彼の心は蝕まれた。どうすることもできない非力な自分を恨んだりもした。  日に日に衰えていく母親。このままではいけないと、父親が病院へ連れていったときには、もうすでに母親の瞳から涙は枯れ果てていた。  もはや絶望すらも枯れ果てた——そんなふうに疲弊していた、ある日のこと。 「ある日、学校から帰ったアタシのことを、母は妹と間違えたの。……ううん、間違えたんじゃない。本気でそう思い込んでたのよ」  ——You came back, Anne!  小学校から帰宅した響のことを、母親は笑顔で迎えた。『戻ってきてくれたのね』と、力いっぱい彼を抱き締めた。  久しぶりに母親の笑顔を目の当たりにし、純粋に嬉しく思った。同時に、その瞳に映っているのが自分ではないということに、ひどくショックを受けた。  それでも、子どもとして、息子として、自分にできることを見つけた彼は、ある決断をしたのだ。 「そのとき決めたの。アタシが妹を——って」  彼が下した決断。それは、自分が杏になること。  その日を境に、彼は妹になりきった。一人称も〝オレ〟から〝アタシ〟へと変え、髪の毛も長く伸ばし始めた。自分のしていることに懐疑的になりながらも、母親の笑顔を守るため、彼は必死で妹を演じ続けた。  異様ともいえる光景。けれども、家族はけっして目を瞑らなかった。母親のために、家族のために、幼い彼が必死で見つけた答えを支え、見守ったのである。 「……そんなごまかしなんて、長く通用するはずないのにね」  響を通して杏を見ているあいだにも、母親の精神は確実に冒されていた。ふとした拍子に現実に呼び戻されると、娘の死に慟哭した。  しだいに日本語が話せなくなり、やがて言葉自体話さなくなった。  そして、杏の死から二年後の夏。精神的にも肉体的にも限界に達した彼の母親は、離婚し、イギリスへ帰国することとなったのである。 「十年以上過ごしてたっていっても、日本での生活は、やっぱり負担だったんだと思う。言葉も文化も異なる国で生きるって、簡単なことじゃないもの。……ただ、アタシがしたことは、結果的に母を追い詰めただけなんじゃないかって、思ったりもして」 「……」  紫はわかった。わかってしまった。彼が渡英するに至った、本当の理由を。 「だから、いまだに顔を合わせられなくて」 「……っ」  彼に翳りを宿している、その正体を。 「アタシのせいで、母は——」 「それは違います!!」  響のを打ち消すように、紫は声を張り上げた。驚いた響が、目を見開く。  認めたくなかった。認めるわけにはいかなかった。母親の病の進行や両親の離婚は、けっして彼のせいなんかじゃない。彼が償う理由など、どこにもない。 「響さんの気持ちは、みんなにちゃんと伝わってます! もちろん、お母さんにも! だって——」  彼の優しさや勇気から生まれた言動は、きっと伝わっている。  だって—— 「——家族だから!!」  ふっと、風が凪いだ。先ほどまで鳴いていたひぐらしも、今は沈黙している。  階段の下に伸びる、二つの影法師。夕焼けに染まるそれらは、まるで繊細な切り絵のように美しかった。  音のない世界——無音の芸術の中、一方からもう一方へ、細長い影がすっと伸びる。  響の右手が、紫の左頬に、そっと触れた。 「……ありがとう、紫ちゃん」  無音に落とし込まれた、優しく、甘く、澄み渡った彼の声。触れ合った部分から広がる、まあるい熱。  錆びついた音は、もう、聞こえなかった。
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