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八月十六日-①
小さな町にけたたましく轟くサイレン。
禍々しく染め上げられた赤錆色の空は、まるで生き物のように蠢き、短時間でその表情を変えた。
唸りながら勢いよく立ちのぼる黒煙。秒を追うごとに凄まじさを増す火柱。
目の前に広がる激甚を極めた光景に、住民たちは戦慄し、絶望した。
「放水始め!!」
「怪我人や!! 担架持ってこい!!」
消防士たちの必死の叫び声が、そこかしこで上がる。一刻の猶予もない緊迫したこの状況下では、わずかな判断ミスも許されない。緊急車両の赤い回転灯が、現場の物々しさをさらに助長していた。
「被害状況は? まだ中に人おるんか?」
消火活動と並行して情報を収集しようと、清水は現場を駆けた。焦ってはいけないと自戒しながらも、被害の拡大を防ぐためには自身を急かさざるを得なかった。一分一秒たりとも無駄にすることはできない。最善を尽くさなければならない。
信じたくはないが、今炎に呑み込まれているのは、息子の同級生の家なのだ。
「清水さん!! 橘夫妻と娘さんの安否がまだ確認できていません!! ひょっとしたら、まだ中に……っ」
「!?」
最悪の事態など、想像したくはない。
清水は、後輩と二人で、燃え盛る旅館の中へと飛び込んだ。恐怖など感じている暇はない。早く三人を見つけ出して無事を確認しなければという、その一心だった。
壁や絨毯を喰らい、成長した炎が二人に迫る。木造ゆえ、かなり火の回りが速かったらしい。
立ち込めた黒煙。柱の爆ぜる音。炙るような熱気。見知った旅館のはずなのに、かつての面影は、もうどこにもなかった。
「誰かいませんか!!」
「橘さん!! 紫ちゃん!!」
声を張り上げ、懸命に探す。火災現場においては、要救助者が声を出して応えられない状況も十分に考えられるため、二人は目を凝らしながら慎重に探索を進めた。
そしてついに、
「清水さん、あそこ!!」
二人は、大人子ども合わせて三人の姿を視認した。
火の勢いが激しくなったせいで、身動きが取れなくなってしまったのだろう。三人は、身を寄せるようにして、じっと耐えていた。
「橘さん!!」
「……清水さん!!」
清水の存在に気づいた女将——橘葵が、その表情を緩めた。着ている着物は煤で汚れ、白かったはずの足袋はボロボロになっていた。
「要救助者三名発見!! 至急応援願います!!」
後輩が無線で外に呼びかける。すると、間髪容れずに『了解した』との返事があった。
「よう頑張りましたね。もう大丈夫ですよ」
三人の元へとしゃがみ込み、手を差し伸べた清水は、あることに気がついた。
夫妻に寄り添い、身を小さくしていた子どもは、娘の紫ではなかったのである。
「清水さん。この子、先に出してあげてください。ご両親とはぐれてしまったみたいで」
そう言って、夫の旭が子どもの手を引き、清水に託した。その子は、客として両親と三人で旅館に宿泊していた、小学三年生の女の子だった。
恐怖に震え、怯える少女。その不安を拭うように優しく頭を撫でた清水は、夫妻の望みどおり、少女を優先して外に出すことを後輩に指示した。
「紫ちゃんは? 一緒やなかったんですか?」
「あ、はい。紫は今、私の兄のところへ遊びに行っておりまして」
「東京に?」
「ええ。ですので、ここにはいません。……すみません、清水さん。ご迷惑をおかけしてしまって」
「何言うたはるんですか! そんなこと気にせんといてください! すぐに応援も来ますから、はよ外に出ましょう」
夫妻を慰め、励ます清水。紫が今この場所にいないということに安堵しつつも、依然、緊張の糸は張りつめたままである。
轟々という音とともに、空気が震撼する。数分前と比べ、熱量が増していることは明らかだった。
「要救助者発見!!」
「応援や。二人とも、体勢低うしたまま、こちらへ——」
応援に駆けつけた隊員の声を確認した清水が、夫妻を誘導しようとした。
次の瞬間。
「!!」
メキメキという嫌な音を立てて崩れた柱が、清水と夫妻のあいだを分断した。支えを失った壁や天井が、火の粉をふきながら次々と剥がれ落ちてゆく。
崩れた柱の上は、あっという間に瓦礫で覆いつくされた。
「橘さん!!」
清水は、必死で二人に呼びかけた。氷のように冷たい悪寒が、全身を貫く。
防護されているはずなのに、皮膚が痛い。呼吸器をつけているはずなのに、肺が痛い。
「橘さん!!」
胸が、痛い。
——橘さんっ!!!!!
建物が、まるで魔物のような唸り声を上げる業火の中。
清水の悲痛な呼び声が、橘夫妻に届くことは、二度となかった。
◆ ◆ ◆
「あら。いい匂いね」
シャカシャカと泡立て器をかき回す夫の手元を覗き込む。ボウルの中、とろりとしたクリーム色の液体から漂う甘い香りは、バニラエッセンスだ。
「フレンチトースト?」
彰の手際の良さに改めて感心を示しつつ、都は首を傾げた。答えはもうわかっているようなものだが、コミュニケーションの一環として問いかけたりなんかしてみる。案の定、彰からの返事は〝イエス〟だった。
作務衣姿でフレンチトーストを作る住職。
なんともアンバランスなようにも思えるが、意外と様になっている。なにより、これからでき上がるものの味は、百パーセント保証されていると言っても過言ではないのだ。よって、是とする以外ほかはない。
八月十六日、金曜日。
盂蘭盆のあいだじゅう、ずっと仕事に追われていた都だが、もちろん今日も今日とて仕事が待ち構えている。来週からは夏休み後半の補習も始まるため、そろそろその準備にも取りかからなければならない。担任しているのは、大学受験を控えた受験生。よって、彼女の慌ただしさが休まることはほとんどない。
「馨は? もう行った?」
夫の調理を手伝おうと、都は包丁を手に取った。どうやら、五枚切りの食パンを、四分の一大にカットしていくつもりのようだ。
「うん。十分くらい前だったかな? 朝ごはんも食べずに行っちゃった。『大学で適当に食べるから』って」
都がカットした食パンを、彰がボウルへ投入していく。白いパンにゆっくりと染み込むクリーム色。この状態でしばらく放置すれば、あとはこんがりと焼くだけだ。
母と同じく、期間中はずっと仕事に明け暮れていた馨。この日は、朝一で会議が入っているらしく、支度中の母よりも一足先に出勤した。父曰く、非常に不本意そうな表情をしていたとのことで、それを想像した母は苦笑せざるを得なかった。
「……紫は? まだ、起きてないの?」
そして話題は、愛娘のことに。
普段なら、もうとっくに起きている時間。にもかかわらず、今朝はまだ、父母ともに娘の姿を見かけていなかった。
「うん。……たぶん、目は覚めてると思うんだけどね。部屋から、出てこないね」
その理由に、心当たりはある。というより、思い当たることは、一つしかない。
八月十六日。今日は、紫の両親——旭と葵の祥月命日だ。
五年前のこの日、旭と葵は亡くなった。経営する旅館の火災に巻き込まれて亡くなった。
悠久の歴史を持つ観光名所。そこの老舗旅館で起こった凄惨な事故は、地方紙のみならず、全国紙でも大きく取り上げられた。
「本当に仲が良かったものね。三人とも」
「うん。紫に対する旭の溺愛ぶりは、ある意味親バカを通り越してたからね」
一人娘である紫のことを、とても大切に育てていた旭と葵。なんの前触れもなく、ある日突然命を絶たれてしまった二人の無念たるや、筆舌に尽くし難い。
「……大丈夫?」
「え?」
「あなただってつらいでしょう? 大事な弟夫婦だもの」
未曾有の大事故は、人々の心に深い傷を刻みつけ、いたるところに爪痕を残した。その中にはもちろん、実弟を亡くした彰も含まれている。
目を伏せた彰は、愁いを帯びた表情で、静かにこう語った。
「そうだね。つらくないとは嘘でも言えないけど……でも、あの小さな体で必死に耐えてる紫のことを考えたら、僕が落ち込んでる暇なんてないなって」
五年前の今日。旭と葵の訃報を受けた彰は、紫と家族を連れ、急いで京都へと向かった。焼け崩れた旅館を目の当たりにし、生まれて初めて〝絶望〟という言葉の意味を知った。
両親を一度に喪い、言葉を失い、表情さえも失った姪。そんな彼女を引き取らないという選択肢など、彰にはなかった。人を一人育てるということの難しさ、その重責は、重々承知している。
本当の親にはなれないかもしれない。けれど、精一杯この子を支えよう。
そう、誓った。
——紫のお父さんとお母さんは、〝お父さん〟と〝お母さん〟だけだから。大丈夫、無理して呼ばなくていいよ。……呼び方なんて関係ない。どんな形でも、僕たちは家族だから。
紫が養女となって間もない頃、彰と都のことを、どう呼べばいいか悩んでいた彼女に対し、彰がかけた言葉である。
それまで伯父と伯母だった存在を、父母と呼ぶことへの抵抗。その心情を汲み取ったうえでの、彰なりの気遣いだった。
「遠慮なんかしないで、もっと頼ってくれたらいいのにね」
「……そうだね」
都の口から思わず本音が漏れる。これに関しては、彰も同感だった。
紫の夢については、二人とも具体的に感知している。翻訳家や通訳者として活動したいこと。そして、海外へ留学したいこと。
旭や葵が娘の夢を応援していたように、彰と都も娘の夢を応援したいと、心の底から強く思っている。親として、できるかぎりの援助は惜しまない所存だ。
娘にその意思があるのなら、いつでも準備は整っている。自分たちを親として頼ってくれさえすれば、いつだって。
「でも、とにかく今日の花火大会が心配ね。……彰、今晩遅くなるんでしょう? 私も、生徒の保護者との懇談があるから、早くは帰れないのよ」
今夜八時。例年通り、地元主催の花火大会が、近くの河川敷で開催される。一月ほど前から街のあらゆる場所にポスターが貼られ、折に触れてアナウンスもなされている。
紫自身、幼い頃から毎年楽しみにしていた花火大会。しかし、あの年以来、紫がこの花火大会を観賞したことは一度もない。花火が上がっているあいだ、一人部屋にこもったまま出てこないといった状況だ。
「馨がついててくれるみたいだよ。花火が上がるまでには帰ってくるって。僕も、なるべく早く帰ってくるつもりだから」
傷の痛みに耐えている紫に対し、直接何かができるというわけではない。隣に寄り添い、慰めの言葉をかけられるわけでもないが、とにかく一人にしたくはないというのが、家族三人の共通見解であった。
外は、耳を劈くほどの蝉時雨。
いつもと違う朝の食卓は、甘い香りと寂寥感に包まれていた。
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