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八月十七日-①
糸のように細く立ちのぼる線香の煙。夏の空気にたゆたうそれは、独特の匂いを運んできた。慣れているはずなのに、いつにもまして、しみじみとした情感を覚えてしまう。
寺の所有する墓域。その一角に、周囲の墓に比し、まだ新しい墓が一基据えられてある。墓石に隣接する石碑に彫刻されているのは、ここに納骨された故人の名前。
橘旭。
橘葵。
八月十七日。紫は、両親の墓前に立っていた。
納骨されて以来、紫が墓参したことは、数えるほどしかない。ここは、両親の〝死〟という現実を、まざまざと突きつけられる場所。ゆえに、あえて避けていた場所でもあった。
けれど、昨夜。響とともに見た花火が、紫の中に巣食っていた黒い靄を完全に消散させた。
昨夜、泣きじゃくる紫が落ち着くまでずっと、響はそばに寄り添っていてくれた。彼の『大丈夫』だというその一言で、心に刺さっていた棘がぽろぽろと抜け落ちるのを感じた。
花火が終わり、泣き止んだ紫が案内されたのは、響の祖父母の家。それは、丘の上へと向かう道中で見かけた、あの立派な日本家屋だった。
日野の娘だということもあり、二人は紫のことを優しく迎え入れてくれた。よく冷えたスイカを切り分け、目一杯もてなしてくれた。
そうして一時間ほど経過した後。
響から連絡を受けた馨が、車で迎えにきた。仕事帰りに急いで寄ったという彼は、ネクタイを締めたままだった。三人に謝意を伝え、深々と頭を下げると、紫の手を引いて車に乗り込んだ。
帰宅し、紫が玄関の扉を開けた瞬間。そこで待っていた都に、強く抱き締められた。都は、泣いていた。
隣には、心配を色濃く滲ませながらも、安堵した様子の彰の姿。
——おかえり。
彰のこの言葉で、止まっていた紫の涙が、再び溢れ出した。
自分を支えてくれたすべての人に感謝し、申し訳ないと思う一方、自分はけっして一人ではないということを実感し、胸が熱くなった。
両親が亡くなったという現実が変わることはない。哀しみは、これからもずっと続いていくのだろう。だが、五年前の八月十六日を乗り越えた今、悲しい記憶が上書きされた今なら、この場所にも立てるような——現実と向き合えるような、そんな気がしたのだ。
両手を合わせ、静かに瞑目する。心の中で念仏を数回唱えると、おもむろに墓前をあとにした。
「……?」
数歩進んだ先。不意に、誰かに呼び止められたような気がして、紫はゆっくりと振り返った。供えた線香は、いまだ空へと煙を上げ続けている。
「……お父さん、お母さん。わたし、もう行くね」
白い煙の向こう側。紫は、記憶の中の二人にそっと呼びかけた。並んだ二人は、笑っていた。
優しい顔で。
笑っていた。
亡き人があってこそ、今を歩んでいる私です。
亡き人との縁を大事に、私が念仏申す者となりましょう。
亡き人のためではなく、今を生きる〝私自身〟のために——。
◆
青空へと立ちのぼる仄かな紫煙。気だるげに空気に溶け込む様は、まるで惰眠をむさぼる気ままな猫だ。
「じゃあ、紫ちゃんは今、ご両親のお墓参りに?」
「ああ。朝から準備して、さっき一人で出て行った」
紫が墓参しているあいだ、響と馨は日野邸の前にいた。
今しがた寺を訪れた響を、馨が出迎えたという構図。……というのは見せかけで、実際は、妹を心配して外で右往左往していた兄を、親友が発見したという構図である。
「心配する気持ちはわかるけど、アンタがオロオロしてどうすんのよ」
「そんなオロオロしてるのか、俺」
「してるわよ。見てるこっちが落ち着かないくらい」
紫煙を吐き出しながら『無意識か!』と突っ込む響。親友の重度のシスコンぶりに眉根を寄せる。とはいえ、兄としての気持ちは多分に理解できるため、これ以上深掘りするのはやめてやった。
「で、アタシに用って何?」
くゆる煙草を咥えて問いかける。響がここを訪れたのは、やっと落ち着きを取り戻しつつある、目の前の親友に呼び出されたからであった。
今朝がた、突然馨から連絡が入った。もし可能なら、家まで来てほしいと。とくになすべき事もなかったため、軽く承諾してはみたものの、肝心の目的を告げられないまま通話を切られてしまったのだ。
「またあとで言う」
「……なんで?」
「なんでも」
馨のこの返答に、響の眉根がますます寄った。訝しげな視線を浴びせるも、完全に落ち着きを取り戻した親友は、こちらを向くことなく涼しげな表情をしている。
……腑に落ちない。けれど、学生の頃からこういうヤツだったと、響は心の中で小さく白旗を振った。
「響」
「ん?」
「ゆうべ、お前が紫と一緒にいてくれて助かった。叔父さんと叔母さんの墓参りができるようになったのも、きっとお前のおかげだ。……ありがとな」
涼しげな表情。だが、その瞳には、妹に対する深い恩愛が確かに浮かんでいた。
「アタシは何もしてないわ。ただきっかけを作っただけ。……もし、いい方向に心境が変化したのだとしたら、それは紫ちゃんが自分の力で乗り越えたからよ」
指で挟んだ煙草を口元から離す。親友の〝兄〟としての謝意に笑みを湛えると、持っていた携帯灰皿に吸い殻を押しつけた。
謙遜するつもりはない。本気でそう思っているのだ。彼女を引導したのは、まぎれもなく彼女自身だと。
「すごくいい子よね。しっかりしてるし、周りに配慮もできてるし。ちゃんと自分の意思だって持ってるんだもの」
「大事に育てられてたからな。叔父さんと叔母さんに」
「日野家でだってそうじゃない。小父さんも小母さんも、アンタも……大事にしてるのわかるわよ。あの子のこと」
従妹が妹になった——そう親友から告げられた日のことを、響は今でもよく覚えている。
あれは五年前の八月下旬。仕事の合間に夕飯を済ませようと、会社近くのレストランに入店した、午後七時頃のことだった。
ロンドンと東京の時差は八時間。よって、馨が電話をかけてきたのは、午前三時頃ということになる。
——どうしたのよ。今そっち真夜中でしょ?
——……に、なった。
——え? なに?
——……従妹が、妹になった。京都の。……叔父さんと叔母さんが事故で死んで……それで……。
——えっ!? その子って、確かまだ小学生とか中学生じゃなかった……?
——……。
——……ちょっと馨? 大丈夫?
——……。
——馨!!
あとになって、会話が途切れた原因は、単に馨の寝落ちだったと判明したのだが、あのときばかりは本気で心配した。周囲を顧みず何度も呼びかけたし、仕事をしながら何度も連絡を試みた。
馨からの反応が、約半日後に送られてきた『ごめん、寝てた』のメッセージのみだったことには火を吐きそうになったが、当時の彼の心労を慮れば、責める気になど到底なれなかった。
「この夏、思いきって日本に帰ってきて良かった。……あの子に会えて、本当に良かったわ」
妹の心境が好転したのは自分のおかげ。そう親友は評価してくれるけれど、自分が彼女に対して行ったことは、他の誰でもない彼女の受け売りだ。
二十年間、恐怖で雁字搦めとなっていた自分の心を解きほぐし、光を当ててくれたのは、彼女なのだ。
「アンタには感謝してる。あの子との時間を、アタシにくれたこと」
自分こそ、彼女に——紫に、救われた。
「あのさ、響」
「?」
「お前、紫のこと——」
「……響さん?」
馨が何かを言いかけたこのタイミングで、墓域から紫が戻ってきた。右手には線香などを入れた巾着袋が、左手には柄杓の入った手桶が、それぞれ握られている。
「こんにちは」
「こんにちは。……あの、昨日はありがとうございました。お邪魔するどころか、ご馳走にまでなってしまって……」
昨夜のことに関して、紫は改めて謝意を示した。思い返せば、いろいろと恥をさらしてしまった部分があるため、どうしても語尾にかけて音量が小さくなっていく。
「ううん、気にしないで。またいつでも遊びに来てって、二人とも言ってたわ」
これに対し、響はかぶりを振った。さらには、祖父母からの優渥な言伝までをも、伝えてくれたのである。
家族だけではなく、響や響の祖父母の温かさにも、紫は心を震わせた。
「……で、二回目だけど」
紫とのやり取りがひと段落したおり。
腕を組んだ響が、馨のほうへと向き直った。先ほど得ようとして躱された本日の目的を、再度追及するためである。
「アタシに用ってなんなの? いい加減教えてくれ——」
「ランチ予約したんだ。今から二人で食べてこい」
予想外以外の何物でもない馨の発言。これには、紫の『え?』と、響の『は?』が重なった。
「……ランチ?」
「ああ。いつもの店に二人で予約してるから行ってこい。俺の奢りだ」
目をしばたかせる妹と親友をよそに、淡々と話を進める馨(ちなみに、馨の言う〝いつもの店〟とは、例の創作料理店である)。
馨が響を呼び出した目的とは、妹と二人でランチを食べに行かせることだったらしい。
「馨兄は、一緒に行かないの?」
「俺は今から大学」
「土曜日なのに?」
「野暮用でな。昨日やり残した仕事が少しあるから、それ片づけてくる」
「そう、なんだ」
「じゃあ、こいつのこと頼むな」
「えっ、ちょっと……馨!!」
自分のプランが活きたことに満足したのだろうか。会心の笑みを浮かべ、ひらひらと手を振ると、馨は職場へと出かけて行った。
「……」
「……」
この場に残された紫と響。互いに状況を整理しようと努めるも、なかなか頭が追いつかない。耳につく蝉の声が、よけいにそれを邪魔した。
「……すみません。馨兄がお騒がせして」
「紫ちゃんが謝ることじゃないわ。……それにしても、さすがね。あの無自覚マイペース」
基本的に、口数少なく面倒くさがりの馨。そんな彼が、たまに……ごくたまに、突拍子もないことをやってのけるときがある。
けれども、響は知っている。こういうとき、馨の言動の中には、何かしら大きな意味が込められているということを。
「……せっかくだし、ここは馨の厚意に甘えましょうか」
「え? あ、そうですね。せっかくですもんね」
「今から行ったら、ちょうどいいくらいの時間に着けると思うけど……もう行く?」
「はい。じゃあ、これ片づけてくるので、響さんも中に入っててください。外、暑いから」
「ありがと。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわね」
出かける準備をするために、二人が居宅のほうへと爪先を向けた。
ちょうどそのとき。
「あの、すいません」
ふと、ある人物に呼び止められた。心なしか、蝉の声が遠のいてゆく。
紫と響が不思議そうに目を遣ると、そこにいたのは二人の青年だった。金髪の青年と黒髪の青年。年齢は、紫とさほど変わらないだろうか。どちらも学生のように見受けられた。
「ここって、日野せんせーのお宅っすよね? ……あ! オレ、せんせーのゼミでゼミ長やってる桐生って言います。こっちは、副ゼミ長の椎名。……もしかして、せんせーの妹さんっすか?」
金髪の青年——桐生が、紫に話しかける。どうやら、二人とも馨の教え子らしい。
なぜ、桐生が自身のことを知っているのか紫にはわからなかったが、彼の質問に対して『はい、そうです』と小さく首肯した。
「この前せんせーに借りてた本返しに来たんすけど……ご在宅ですか?」
そう言って桐生が見せたのは、少々大きめの紙袋。そこには、有名なアパレルブランドのロゴがプリントされていた。中に入っているのは、数冊の専門書のようだ。
「あ、すみません。ついさっき、大学に行くって出かけてしまって……」
「えっ!?」
紫の返答に驚き、桐生は隣の椎名と顔を見合わせた。がくりと肩を落とし、盛大に溜息を吐く。
聞けば、馨の研究室に行くかどうか散々迷った挙句、土曜日だから家にいるだろうという推測のもと、自宅まで足を運んだらしい。
見事に予測をすかっと外してしまった桐生。暑い中付き合わされた椎名も項垂れている。
「しゃーない。大学まで行くか……」
「あとでなんか奢れよ桐生」
明日から実家へ帰省するという二人は、なんとしても本日中に、このミッションをコンプリートしたい様相だ。
今にも干からびてしまいそうな二人に、慌てて紫が声をかける。
「あ、あの……兄に本を渡せばいいだけでしたら、わたしがお預かりしますけど」
「え! お願いしてもいいんすか?」
「はい。これからまた大学に行くのは大変ですし、帰省の準備もあるでしょうから。わざわざ、ありがとうございます」
「こちらこそ!! ありがとうございます!!」
紫のことを崇め奉らん勢いで、桐生が頭を下げた。同じく椎名も、きらきらと黒目を輝かせている。
べつに本を返却するのがいつになろうと、当の馨は微塵も気にはしないだろう。だが、見かけによらず生真面目な桐生は、『これで肩の荷が下りた』と足取り軽やかに帰っていった。その後ろを『なんか奢れよ』と、椎名が追いかける。
二人が去り、はっきりと戻ってきた蝉の声。まるで台風のような強烈さだった。
「馨ってば、ちゃんと先生してるのね」
「わたしも、教え子さんには初めて会いました」
肌を焦がすほどの陽光に、たとえようのない柔らかさを覚える中。
手に持った本の重みを感じながら、紫は再び家を目指した。
「せんせーの妹さん、すっげー可愛かったな」
「ああ。俺らより年下とは思えないくらい、しっかりしてたしな」
「あと、隣にいた……あの人ハーフかな? すっげー美人だったな」
「ああ。妹さんが『ひびきさん』って呼んでたけど、それってこの前、先生に電話かけてきた人と同じ名前だよな」
「……じゃあ、あの人が」
「……確証はないけど、親しい仲には違いないんじゃないか? だって妹さんとも普通に一緒にいるくらいだし」
「……」
「……」
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