50人が本棚に入れています
本棚に追加
八月十七日-②
店に到着した紫と響が通されたのは個室だった。橙色の和紙照明が、室内を淡く茫と照らし出す。
四人用のテーブルに悠々と二人。掘りごたつに対座すると、火照った体からしだいに熱が引いていくのがわかった。
事前に馨から料理の注文も入っているとのことで、とくになんのアクションもとることなく、料理が届けられるのを待つことに。
「響さんは、ここのお店、来たことありますか?」
「ええ。この前、父と馨と来たばかりよ。ここのオーナーと父が高校時代の同級生でね。日本に住んでた頃は、よく来てたわ」
「そうなんですか」
「紫ちゃんは? たしかここも檀家よね?」
「あ、そうです。わたしも、夏に遊びに来てた頃から、ここへはよく連れてきてもらってました」
「そうなんだ。……紫ちゃんは、食べ物何が好き? 甘い物以外で」
「え? えー、と……魚介類が好きです」
「あら、馨と一緒ね」
「生まれたのが海の近くなので、どうしても馴染みがあって……。でも、馨兄の影響も大きかったと思います。美味しそうに食べてるの、隣でずっと見てたから、真似したくなって」
「アイツ、帆立すっごい好きでしょ」
「大好きです。とくに貝柱が」
他愛ない話に花を咲かせる。ときおり声を出して笑い合いながら、二人は二人の時を紡いだ。
料理が到着してからも、二人の会話が尽きることはなかった。以前は、ほとんどの話題を響が一方的に提供するという形だったが、今では紫のほうからも進んで提供できるまでになった。
テーブルに並べられた、彩り豊かな夏の御膳。あっさりと、さっぱりとした品目は、五感をすべて刺激されるほどに味わい深いものだった。
中でも二人を唸らせたのは、鱧の梅肉添え。ふわっとした舌触りと上品な香りに、おのずと心が躍る。
こうして食事をともにするのは、ちょうど一週間ぶりのこと。この一週間で、いろいろなことが目まぐるしく変化した。とりわけ大きく変化したのは、やはり夏に対する互いの心境だろう。夏が、こんなにも穏やかに過ごせるようになるなんて、思ってもみなかった。
夏の色が、こんなにも鮮やかに映るなんて、思ってもみなかった。
「うん、美味しい。やっぱり和食はいいわね」
「イギリスでは、あまり食べませんか?」
「うーん……そうね。どうしても機会は減っちゃうわね」
「日本食レストランとかって……」
「あるある。もちろんあるんだけど……アタシは、ここの和食が一番美味しいと思うわ」
そう言って箸を動かす響は、本当に嬉しそうで。紫は、自身の口元が自然と綻ぶのを感じた。
このとき、紫の双眸に映っていたのは、まさしく〝日本人〟としての久我響だった。
半時間以上をかけ、御膳を堪能した二人。デザートの甘味と抹茶まで、すべて美味しく頂いた。
その後も、和やかに過ぎる時間を共有した。お腹がこなれるまで、このまま会話を楽しむ……つもりだった。
ブーッ、ブーッ——
突如震え出した響のスマホに、縫いつけられた二人の視線。どうやら着信らしい。
「あー……ごめんなさい。ちょっと出てきてもいいかしら?」
申し訳なさそうに許可を求める響に対し、紫は『はい』と頷き返した。個室ゆえ、ここで通話しても問題はないが、自分に配慮してくれたのだろうと思いなす。
「Hello? ……Yeah,I'm doing well.(もしもし。……ええ、元気にしてるわ)」
流暢な英語で挨拶をしながら、彼は部屋の外へと出て行った。彼の口ぶりから推察するに、相手とはかなり親しい間柄のようだ。
位置的にも奥まっているため、この部屋の周囲は閑寂としている。……聞くつもりなどなかった。微塵も。けれど、漏れ聞こえた彼の英語を、紫は正確に聞き取ってしまったのである。
「I plan to go home next Tuesday. ……All right. I'll contact you before leaving Japan.(次の火曜日に帰国するつもりよ。……わかったわ。日本を発つ前に、また連絡するわね)」
胸が、ほんの少し痛んだ。針でつつかれたみたいに、ちくちくと。
わかっていた。わかっていたはずなのに、失念してしまっていたのである。彼と過ごすこの時間が、かけがえのないこの時間が、あまりにも心地好くて。
三分ほどの通話を終え、響が室内へと戻ってきた。『ごめんなさい』と笑った彼は、いつもの彼だった。
しかし、その表情は、心なしかわずかに翳って見えた。
店を出たあとのプランはとくに何も立てていなかったが、互いに『解散する』という考えには至らず、そのまま街をぶらぶらすることに。相変わらず、他愛ない話で時間を繋ぐ。だが、明らかに二人の口数は少なくなっていた。
午後の太陽の下。辿り着いた先は、あの河川敷だった。
一週間前と同じように、屋根付き休憩所で涼をとる。光を反射する水面が、なんだかやけに眩しかった。
かんかん照りのせいだろうか。この日、グラウンドに子どもたちの姿はなかった。もしかすると、そろそろ宿題に追われている頃なのかもしれない。
もうすぐ、今年の夏も、終わりを迎える。
「響さん、火曜日……二十日に、帰国するんですか……?」
「……聞こえちゃった?」
「すみません。聞くつもりは、なかったんですけど……」
先ほど意図せず耳にしてしまった内容。紫は、それを響に確認した。黙っていることだってできたのに、なんとなくそうはしたくなかった。黙ったまま三日後を迎え、彼と離れることになるのは嫌だ。なぜか、そんなふうに思ってしまったのである。
「……寂しい?」
冗談めかして響が問いかける。とはいえ、明るい声調とは裏腹に、その顔つきは真剣そのものだった。
彼の真剣さは、もちろん紫に伝わった。紫は、一瞬だけ唇をきゅっと結ぶと、呼吸を整え、静かに口を開いた。
「寂しい、です……」
一音一音に込められた気持ち。それは、飾り気のない、今の正直な気持ちだった。これだけ答えると、紫は再び唇を結んだ。今度は、さらにきつく。
近いうちに、響がイギリスへ帰国することはわかっていた。彼はイギリス人。彼には彼の仕事があって、生活がある。
ちゃんと理解している。だからこそ、こんなにも寂しさを覚えてしまうのだ。
水際特有の清らかな風が吹き渡る。草木をさざめかせながら、まるで暑さをなだめるように、穏やかに。
どれくらいの時間、互いに沈黙しているだろうか。
依然として紫は唇を結んだまま固まっているが、響はというと、なにやら思案に沈んでいるようだった。首を傾げたり、項垂れたり、頭を抱えたり……声を発することこそなかったが、その挙動は実に騒がしかった。
そしてついに、
「あーっ、もう……!!」
「!!」
突然響が発した大声に、紫は目を丸くした。飛び上がった心臓をなんとか押さえ込み、思わず居住まいを正す。
彼が声を張り上げたことにも十分驚いたが、次に彼の口から放たれた言葉に、紫は驚倒した。
「好きよ、紫ちゃん」
「!?」
紫の黒い瞳に、ひたむきで凛とした響が映り込む。刹那、周囲の雑音がすべて遮断されたかのような錯覚に陥った。
間違いなく、彼は自分に向かって〝好き〟だと言った。彼の眼差しを見るかぎり、これが冗談ではないということや、単なる好意でもないということが窺えた。
「ごめんなさいね、急に。困らせちゃったわよね。……でも、さっき祖父と話して、三日後には、もう向こうに帰るんだって意識したら、どうしても伝えておきたくて……」
悩んだすえの告白。そこには、彼の抱くさまざまな葛藤と、紫に対する想いがつぶさに込められていた。
一回り以上も年の離れたイギリス人——そんな自分が、まだ十代の未来ある彼女に想いを寄せてもいいものだろうか。ひと夏の思い出として、そっと持ち帰ったほうがいいのではないだろうか。
何度も何度も思いとどまっては、自分の気持ちを抑え込もうと努力した。けれども、祖父からの電話で焦燥感に駆られ、『寂しい』と零した紫のいじらしさに耐えきれなかったのである。
——お前、紫のこと——
あのとき、馨が何を言わんとしていたのか、響にはわかっていた。親友には、自分の気持ちが筒抜けだったのだ。きっと。
「これは、アタシの一方的な気持ちだから。受け取らなくていいし、伝えられただけで、アタシは十分嬉し——」
「わたしも好きです。響さんのこと」
「……え?」
まさかのカウンターに、今度は響が瞠目する番だった。
被せられた紫の言葉は、はっきりと響の耳に届いていた。にもかかわらず、上手く呑み込むことができなかったのである。
やっとのことで一言だけ発し、聞き返す。すると、数分前とは見違えるほどに淑女然とした紫が、ゆっくりと話し始めた。
「さっきお店で、響さんが帰国するって知ったとき、胸が痛くなって、すごく寂しくて……離れたくないって、思ってしまいました」
愁いを綯い交ぜにした声色で、想いを吐露する。言葉にしながら、紫は自身の気持ちを懸命に整理しているようだった。
無理なことだとわかっている。どうしても叶えたいと、そんなふうに望んでいるわけではない。彼には彼の、自分には自分の、なすべきことがあるから。
ただ、彼との夏を、このまま終わりにしたくはない——そう、強く思ってしまったのだ。
「わたし、こういう気持ち初めてで……ほんと、どうしたらいいのか、全然わからないんですけど、でも……わっ!!」
腰のあたりに熱を感じるやいなや、いきなり近くなった響との距離。彼に抱き寄せられたと気づいたときには、紫は彼の懐にすっぽりと収まっていた。
「Incredible!! ほんとに!? 信じられない……!!」
嬉しさのあまり、響は迸る感情を抑えることができなかった。紫を抱き締める腕に、よりいっそう力を込める。
「!? ひ、響さ……あの……っ……」
「あっ、ごめんなさい。苦しかった?」
「ち、ちが……そうじゃ、なくて……!!」
まるで茹蛸のように顔を真っ赤にしながら、何かを懇願する紫。どうやら抱き締められた際、額に響の唇が当たっていたらしい。
その初心な反応すらも、響には、愛おしく映ってしまうのだけれど。
晩夏の風が、二人のもとへと流れてくる。
「響さんの……その……数々のスキンシップは、イギリス人ならではのものかと思っていました……」
「いやー……さすがによこしまな気持ちがなくちゃ、あんなにベタベタ触れないわよね」
「!?」
次の季節を、運んでくる。
最初のコメントを投稿しよう!