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米介は、先日冬弥と利吉が並んで腰掛けていたのと同じ場所に座って待っていた。 凍てついた空気に身を縮め、震えている。 人気がなく静かな場所は、表通りに比べると一段と冷えるようだ。 「待たせたな」 冬弥はまるで、旧知の仲のように親しげに声を掛ける。 米介の方はぺこりと頭を下げ、鼻をすすった。 「あいすいやせん、呼び出したりしちまって」 「利吉の頼みだからな。俺に何か話したいことがあるそうだな」 「へい」 米介はもう一度鼻をすする。彼は子持格子の小袖を身に着けているだけだ。 「ぶくぶく着込むのは野暮ってもんよ」と息巻く職人連中とて、この寒さは堪えるに違いない。 「あの、本当ならこんなこと、旦那にお聞かせするもんじゃねえと分かっちゃいるんですが……」 「話してみろ」 「へい……あの、実はここんところ、うちに妙な奴が忍び込んできているようなんでさあ」 「というと?」 「あっしは錺師でやす。旦那のお腰のもんに付ける鍔から、女の髪に挿す簪まで、何だって作れまさあ。ところが」 ここ数日、作った覚えのない品が混じっていることがあるという。 初めて米介がそれに気付いたのは、出入りの店へ納品しに出かけるときであった。 最後に間違いがないか確認をしようと思って風呂敷を開けてみると、そこには見たこともない(こうがい)が混じっていたのだ。 「はじめは(かかあ)のもんが間違えて入っちまったのかと思いやした。いつもおちかが品を包んでくれるもんですから。けど、聞いてみたら違うと言いやがる。お前さんの品だと思って一緒に包んだよときたもんだ。いくら考えても身に覚えがねえし、もし誰かがなくしたなんて話を聞いたら渡しに行きゃあいいと思って放っておいたら、また知らねえ品が出てきたんです。今度は帯留めで、夕方帰ってきたらおしぎの上に置いてありやした。そのときおちかも留守にしてたんで、それを狙ってきたに違ぇねえ。差配さんに相談しようと思ってたら、今朝こいつが」 袖の袂をごそごそと漁る米介。 そこから出てきたのは、一本の櫛だった。 金製の挿し櫛で、半月型である。 掲げてみると、日光を浴びて眩くきらめいた。 胴の上部を起点に三つ叉に分かれた川が歯の方まで流れ、その上を梅の花がいくつも流れていく。 一見すると地味でありきたりな模様だが、川の流れの生き生きした躍動感と梅の花の繊細なまでの細やかさの対比は見事で、眼を見張るものがあった。 「見事な品だな」 米介からそれを受け取り、感嘆の声を上げる冬弥。 それを聞き、米介はくしゃりと顔を歪めた。 「今朝、起きたら枕元にそいつが置いてありやした。嬶に聞いても知らねえって話なんですが、そういえば昨夜、心張り棒を外す音を聞いたような気がするってえ話で。あっしだと思って特に気にしてなかったと言うんですが、確かに心張り棒は外れてたんですよ。しかもご丁寧に、戸の横に立てかけてありやした。人の家に忍び込んで物を盗っていくどころか増やしていきやがる。いってえどんな目的があってそんなことをするんでしょうか」 米介は泣きそうな顔で唇を噛んだ。 確かに妙な話である。 何を思って下手人はそんなことをするのだろうか。 自分の腕に自信があるというのなら、店に乗り込んでいって正々堂々吟味してもらえばいい。 自慢の品を他人の作品に混ぜて、どんな利があるというのか。 いや、そもそも利を求めているのではないのかもしれない。 何か策略があって、米介を陥れようとしているのかもしれない。 だとすれば、放ってはおけない事態だ。 利吉はぐるぐると考えた。 ああでもない、こうでもないと思考を巡らせていると、冬弥が口を開いた。 「長屋の連中には、その話をしていないのだな」 「へい。忍び込まれたなんて話を聞いちゃあ、みんな騒ぐでしょうから」 「そうだな。それから、できた品を持っていくとき、お前はいつもおちかが包んでくれたものを開けて確認するのか?」 「いえ、その日はたまたまでやした。一本懐に入れたままにしちまってたもんがありやして、それも一緒に包んでおこうと思ったんでやす」 「なるほど。もう一つ聞くが、混じっていた品は他の人間に見せたりしたか?」 「まさか。それ以外は行李に放り込んでありやすよ」 米介はそう言って、いまだ冬弥の手の中にある櫛を忌々しげに指差した。 冬弥は再度それをしげしげと眺め、ふむ、と唸る。 「この櫛、しばし借りてもいいか」 その言葉は問う形を取っているが、口調は有無を言わさないものである。 米介は誘導されたかのように頷いた。 きらきらと輝くそれを冬弥が懐にしまってしまうと、辺りはほんの少し色味を失ったようになる。 またもや米介が鼻をすすった。 「少なくとも、下手人はお前を恨んでいるわけではないようだ」 冬弥がそう言う。 米介が「そうなんですかい?」とすがるような目で確かめた。 「下手人は、お前の枕元に忍び込めるほどの者だ。やろうと思えば簡単にお前を殺せる。なのに、傷付けもしなかった。ということは、恨みや憎しみからの行動ではないだろう」 冬弥はさらりとそう言った。 米介はそれを聞いて少し安堵したようで、それと分かるほど体から力が抜けている。 しかし、利吉は違った。 震える。 寒さからではない。胸がすっと冷えたからだ。 冬弥はさらりと、なんでもないように「お前を殺せる」と言った。 彼は侍だ。 しかも同心である。 命が無残に掠め取られる事件も、不慮の事故で死を受け入れざるを得ない者も、嫌というほど見てきているのかもしれない。 事件が日常茶飯事である彼にとっては、なんでもないことなのだ。 しかし、利吉は違う。 滑らかに回る舌で、「お前を殺せる」などと言えやしない。 血の通わぬ言葉の、なんと冷酷なことか。 無頓着で無情で、こちらの心を一瞬で凍りつかせる。 体の寒さなどはどうにでもできるが、心を吹く風はどうにも防ぎようがないのだ。 この心はいつだって裸で、熱も寒さも直にぶつかってくる。 そして今、利吉の胸は凍えた。 市井の人間は、生きることに必死だ。 いつも死に追いかけられているような世の中で、前だけを見て歩いていく。 そうやって目を逸らしながら世を縫っているのに、冬弥の言葉は叩きつけられるようだ。 お前はいつ殺されてもおかしくない。 不意に命は摘み取られるぞ。 老いて死ねるだなんて、当たり前に思わない方がいい。 凍てて凍てて仕方がない。 あえて見ないふりをしている真実を、直視しろと頭を掴まれているようで怯えてしまう。 利吉は冬弥から、僅かに離れた。 「じゃあ、旦那はどうお考えで?」 米介が問う。 彼は、利吉が感じた冷えを感じなかったようだった。 「分からん」 あっさり答える冬弥。 「何しろ、情報が少なすぎるからな。利吉はどう思う?」 不意に投げかけられる。 利吉は戸惑い、「あっしが?」と訊き返した。 「そう、お前が。どう考える?」 どうやら茶化しているわけではないようだ。 冬弥に一種の怯えを感じていた利吉は、躊躇った。 「あっしには……分かりやせん。ずぶの素人でやすから」 「俺だって似たようなものだ。同心といったって、廻り方じゃなし、本所方だ。しかもまだ見習いを終えたばかりだぞ。変わらん変わらん、俺も利吉も変わらん」 妙な節回しをしてにっかりと笑う冬弥。 利吉はさらに戸惑った。 あまりにも彼が掴めなさすぎて、勝手に眉が寄ってしまう。 利吉の眉間をどう受け取ったのか、冬弥は「何でもいい」と促した。 「思ったこと、気になったことを言ってみろ。いや、ぜひ聞かせてくれ」 「利吉っつぁん、頼むぜ」 米介の悲痛と期待が入り混じった面持ちを向けられ、利吉は考えた。 妙な居心地の悪さをとりあえず脇に押しやり、頭を回転させてみる。 米介に対する恨みからくる行動でないとしたら……何だろう。 「もしかしたら……下手人本人の問題なのかも」 「どういうことだ?」 「突っ込まれちまうと、あっしもうまく説明できるか分からないんですが……。もしかしたら、下手人は自分が作ったものを世に出してえのかも。そのために、米さんを利用しようとしてるって線もあるんじゃねえでしょうか」 「自分一人では出せない品か。なぜだ?」 「分かりやせん。半ちく者なのかもしれやせんね」 「半ちく……おい米介、お前が独り立ちしたのはいつだ?」 冬弥が顎をさすりながら、米介の方を向いた。 彼は五年ほど前です、とすぐに答える。 「修行先は」 「三河屋です。永代寺近くの」 視線を彷徨わせる冬弥。 彼の考えていることは、利吉にも分かった。 米介は二人の顔を交互に見て、声を上ずらせる。 「ま、まさか、三河屋の誰かがやったって言うんですかい?」 「いや、分からん。が、自分の品を売れない半端者と聞いて、誰を思い浮かべる? まだ独り立ちできない修行中の人間と思うのが、道理じゃないか」 「そう……、そうかもしれやせんが……」 米介は項垂れた。 知り合いの者が下手人だとは思いたくないのだろう。 利吉は彼に同情する。 「一度行ってみるか」 冬弥が独り言ちた。 ざり、と足の下の砂利が音を立てる。 「あっしも行った方が……?」 「いや、米介は来ない方がいい」 冬弥の返事を聞き、恐々と身を縮めていた米介はほっとしたらしく肩の力を抜いた。 それもそうだろう。 世話になった店に疑惑を持ちながら訪れなければならないだなんて、考えただけで胃が痛くなるに違いない。 そんな風に米介の心中に思いを馳せていた利吉だが、はたと冬弥を見つめた。 なんだか聞き捨てならない言い回しだった気がする。 米介は来ない方がいい……。 米介「は」? 嫌な予感がする。 頭の中で警鐘が鳴っている。 「利吉」 「お断りしやす」 「まだ何も言ってないぞ」 「言わなくたって分かりやす」 「ほう?」 「どうせ、付いてこいとおっしゃるんでしょう」 「大正解だ。さすが、やはり岡っ引きに向いているな」 何が岡っ引きに向いている、だ。 赤子でも勘付く。 「嫌だと申し上げたはずですぜ」 「そう言わずに。案外おもしろいかもしれんぞ」 「事件をおもしれえたあ、よく言いまさあ。米さんは困ってるってのに」 冬弥はため息をついた。 重厚で厭らしく、いかにもお役人らしい息の吐き方だ。 さすがに分をわきまえない発言だったかと、少し後悔する。 米介は黙ってやり取りを聞いており、目だけがきょろきょろと二人の間を行ったり来たりしている。 「米介」 冬弥はあの、捨てられた子犬の顔をした。 哀れみを誘う表情で、米介を見下ろす。 「俺は同心だ。市中を見廻らねばならん身で、毎日のように事件が起きているのはお前も知っているな。こんなことを言うのは心苦しいのだが、やはり今回の件は町名主に引き継がねばならんかもしれん。物がなくなったのではないのなら、同心なんぞの出る幕ではないと判断されるやもしれんのだ」 「そうですか……」 しょげ返る米介。 その様子があまりにも哀れで、なぜか利吉は罪悪感を覚えてしまう。 「そうですよね、旦那はお忙しい身ですもんね……」 「できるならこの手で解決してやりたいのだが」 「いや、あっしが無理を言ってるんでさあ。利吉っつぁんとの仲に付け込むような真似をしちまった。申し訳が立たねえ」 「俺に優秀な手下がいればよかったんだが、あいにくな……」 「まあ、大したことじゃねえのかもしれねえんで。何かこう、あっしを助けてくれようとしてるのかも」 「忍び込んできているのだぞ。危険なやつには違いない。それに、下手をすると長屋の他の人間も危険に晒すことになる。ああ、どうにか()けてやりたいのに……。かたじけない」 「あっ、頭なんか下げねえでくだせえ! そんな、お武家さまに頭を下げてもらうなんて」 「俺を頼ってきてくれたのに、不甲斐ないことになってしまったのだ。本当に申し訳——」 「ああ、もうっ」 耐えかねて、遮る。 わいのわいのやり合っていた二人が、一斉に利吉を見た。 そのうちの一人は微かに口元が緩んでいる……だなどと、死んでも認めたくない。 が、利吉の負けは明白だった。 「手伝えばいいんでしょう、手伝えば。やりやすよ、ええ、やりやすとも。元はといえば、あっしが最初に受けた話だ。やりやさあ、どこへでもお供しやすっ」 啖呵を切る。 啖呵というよりは自棄(やけ)であるが。 「おお、そうか。喜べ、優秀な手下が見つかったぞ」 米介の背をバシリと叩き、今にも飛び上がらんばかりにはしゃぐ冬弥。 依頼した本人は曖昧な笑みを浮かべるだけだ。 利吉の形相を見て、素直に喜んでいいものか判じかねているのだろう。 冬弥にもこのくらいの躊躇(ためら)いと慎みを持ってもらいたいものである。 利吉は「ただし」と低く念を押した。 「今回だけですからね。旦那の元で働くのは今回限りですから」 「そうと決まれば、早速その三河屋とやらへ行ってみようじゃないか」 「……聞いてやす?」 「永代寺近くと言ったな。ここからだと、半刻くらいか」 「旦那っ」 「また何か分かったら知らせるからな。それまではよくよく気を付けて過ごすんだぞ、米介」 「え? あっ、はい」 「園田さま!」 あはは、と笑い、ひらりと身を翻す冬弥。 軽やかな足取りは勝者のそれで、見方を変えれば純な童にも見える。 その姿に、利吉はなんだか超えてはならない線を跨いでしまったような気持ちになった。 情に負けてしまった己が憎たらしい。 呆然と黒い背中を見つめていると、ふとその足が止まった。 「利吉、行くぞ」 手招きされる。 またもや炎のような白い息を吐かぬようなんとか己を律し、利吉は一歩踏み出した。 後ろで米介が、遠慮がちにくしゃみをしている。
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