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三河屋は大店ではなかった。 かといって、小体なわけでもない。 いわゆる中堅の、そこそこの店であった。 繁盛の仕方も安定しているようで、やや華やかさには負けるものの、実のあるものを感じさせる。 客の層は若者より、三十代、四十代の落ち着いた大人が多いようだ。 並ぶ品も地味とはいえ、確かな職人の手によるものばかりだった。 「三河屋というと酒屋や醤油屋なんかが多いんですが、うちも元は酒屋だったんですよ。それを先々代が小間物屋に変えましてね。酒屋だというのに酒がてんでだめで、その代わり手先がえらく器用だったとか。先々代は一人息子だったのですが、当時の主人は息子が酒に弱いのを見越して、自分の代で店を畳むつもりだったそうです。まあ世間じゃ親の気持ち子知らずなんて言いますが、あれは本当ですねえ。親の了承を得て堂々と錺師見習いになった先々代ですが、これが当たりだったようで、親方になれるほどの腕になって帰ってきましてね。店仕舞いをするつもりだったが、そういうことならいっそ鞍替えしちまおうというわけで、現在に至るんですよ」 と、店の主人で現在の親方である惣兵衛は語った。 職人にしては珍しく、おしゃべり好きの性質(たち)らしい。 六十近いのであろう男は、福相を崩して冬弥と利吉を店の奥へ招き入れた。 「では、先々代には商才もあったのだな。そうでなければ、鞍替えをしてここまで身代を大きくすることはできんだろう」 冬弥は本気で感嘆しているらしい。 腕を組み、うんうんと頷いている。 それを見て惣兵衛は、そうでしょうねえと湯飲みに口を付けた。 「もちろん苦労もあったでしょうが、そのあたりは先代……まあ、私の父になるわけですが、その先代の方が身に染みてたみたいです。ことあるごとに、お前は本当の苦労を知らんと言われておりましたので。まあ、その先代も今や鬼籍の身。私は倅に商いのいろはを教えて、あとは楽しい隠居生活を待つばかりです」 ふふっと目尻が垂れ下がる惣兵衛。 顔つきも物腰も、到底職人とは思えない様子である。 利吉はそんな彼を冬弥の後ろで眺め、妙な親方だなと不思議に思いながら出された熱い茶をすすった。 通された客間は質素で、どこぞの田舎らしき風景を描いた掛け軸が床の間に飾られているだけである。 古い部屋ではあるが掃除が行き届いており、火鉢で暖められているのと相まって、居心地のよい場所であった。 こんなに居心地がいいと、主人の長話につい付き合ってしまいそうである。 しかし、利吉はここへ来た目的を忘れていなかった。 冬弥の方は少し怪しいが。 「ご主人」 惣兵衛を呼ぶ。 すると、その福相が利吉に向けられた。 僅かではあるが、瞳が細められる。 そうすると不思議なことに、空気がくるりと変わった。 外から一陣の寒風が忍び込んだようである。 扉という扉はすべてきっちりと閉じられ、暖かさは変わらないというのに。 さすが、店をまとめ上げる大黒柱なだけある。 やはり、ただの好々爺ではなさそうだ。 利吉もしゃんと背筋を伸ばす。 「今日、園田の旦那とお伺いしたのは、ちっとばかし聞きてえことがあってのことです」 「はい、なんでございましょう」 「吾六長屋の米介はご存知ですね」 「もちろんですよ。かつての弟子でございますから」 「その米介のところで、最近、妙なことが起こってるんです」 「妙なこと? まさか、おちかに何ぞあったんじゃないでしょうね」 惣兵衛の顔が引き締まる。 すると、狐のような鋭い面差しに変わった。 「おちか?」と冬弥がおうむ返しに問う。 「米介の内儀の、あのおちかか? なぜそう思う」 「おちかは私の娘でございますから。……あのすっとこどっこいめ、だから心配だったんだ」 先ほどまでの穏やかな様子は消え去り、剣呑に吐き捨てる惣兵衛。 すっとこどっこいとは、米介もえらい言われようである。 それにしても(よね)のやつ、親方の娘を貰ったってのか。 少しばかり驚く。 主人の娘に手を出すとは、勇気があるというのか向こう見ずというのか……。 少し優柔不断なところがある彼の顔を思い描き、人ってのは分からねえもんだとしみじみ思う。 「米介は中庸中道でしてねえ。腕は悪くないのですが、発想が四角四面な職人なんですよ。もちろん、独り立ちさせられるだけのことは教え込みましたが、感性ばっかりはどうにもならないものでして。だから、二人が一緒になりたいと言ってきた時は、おちかにこんこんと説いたものです。人並みの生活はできるだろうが、決してそれ以上は求められないぞ、とね」 はああっと長く重く息を吐く惣兵衛。 冬弥と利吉はちらりと目を合わせた。 「しかし、おちかはそれでもいいと。あたしが側で支える、品の出来だってあたしの目を通さずには納品させないから心配ないと言いましてねえ。こうなったら親は何も言えませんよ。幸いなことに、倅の筋も悪くなし、後継の問題もございませんでした。かくして所帯を持たせるのに承知したわけですけれども、あの野郎、おちかに何をしたんだい? ええ?」 「ご、ご主人、落ち着け。おちかは無事だ。もっとも少しばかり風邪をひいたようで、今日は休んでいるようだが。一日ゆっくり休めるのも、米介のおかげではないか。おちかの代わりに朝からいろろと立ち働いていたぞ」 立ち働いていた、とは、うまく濁したものである。 正しくは、「立ち往生していた」である。 「おや、そうなんですか。私としたことが、つい。いや、どうもいけませんね。娘のこととなるとお前さんは人が変わると、女房にもよく言われるのですが」 あいすみません、と惣兵衛の顔が福相に戻った。 利吉は内心、米介に同情を寄せる。 ここに来なくていいと冬弥に言われた時ほっとしていたのは、こういうことか。 冬弥は咳払いをし、「実はな」とようやく本題に入った。 事の次第を説明し、懐から例の櫛を取り出す。 「これが、今朝枕元に置かれていたというものなのだが、何か気付くことはあるか」 そう言って、彼は惣兵衛に櫛を渡した。 中庭側に面した障子が、冬の陽を受けてぼやっと光る。 さらにそれを受けて、金製の櫛はきらりと輝いた。 ふむ、とも、うーん、ともつかぬ声を鼻から出し、惣兵衛はまじまじとそれを眺めた。 彼の判定を待っている間、二人は少し緊張している。 「正直言って、よく分からないのですが……。ただ、この模様」 惣兵衛は冬弥と利吉の間に視線を巡らせた。 二人は床の間に対して背を向けるように座っていたが、その目線を追って振り返る。 「題材がその掛け軸とまったく同じなのは、気になりますな」 三叉に分かれた川の上を、梅の花がちらりちらりと流れていく。 川の側に満開の梅の木が描かれていること以外、確かに櫛と構図が同じだった。 「それは三河屋が酒屋だった頃からあるものです。本当はどうだか知りませんが、三河国出身だった創業者が、故郷を懐かしんで描かせた代物だとか。川が三叉に分かれているのは、三河という地名にちなんでいること、三河屋という屋号を持つ店の多くが同郷であることで、ふるさとを辿れば皆同じなのだから助け合おうという意が込められているそうです」 「では、この模様が三河屋所縁(ゆかり)であることを示しているのに間違いはなさそうだな」 冬弥はそう言って、瞳を浮かせた。 宙を泳ぐようにあっちを行ったりこっちを来たり、思案しているようだ。 「しかし、ご主人。よく分からんと申したな」 「はい」 「それはどういう意味だ」 「何と申し上げたらいいのか……。この広いお江戸、錺職人は何十人……いや、もしかしたら百人を超える数がいるのかもしれません。もちろん、そのすべてがここ、三河屋で修行した者ではございません。別の親方の元で修行した者もたんといるわけでございます。すると、各親方の色が弟子にも伝わるのですよ。弟子は皆、親方や兄弟子の手を見て育ち、基礎ができるようになったところで初めて自分の色が出せるのです。基となる部分が同じであれば、自然とああこれはどこぞで学んだ手合いだな、というのが分かるんでございます。まあ、絵でいう狩野派だの琳派だのというようなことに近いんでしょうかね」 ふむふむと頷く冬弥。 惣兵衛は、話を続ける前に茶を一口含んだ。 「親方の方は親方の方で、弟子の癖のようなものを把握しております。それが彼らの色になってくるわけなのですが、それを見ながらわたくしどもはそいつをどう育てようかと、一人ひとりに対して思案するわけでございます」 「なるほど」 「そしてこの櫛……一見すると、基はうちで修行した手合いのようなのですが、弟子の誰とも癖が一致しません。見たことのない仕事だ。よく分からないとお答えしたのは、こういうわけでございます」 ただ、と惣兵衛は目を光らせた。 狐が顔を覗かせる。 「これはなかなか見所のある品です。この花びらの細かな彫り……相当に手先が器用ですな。米介なんぞより、腕はずっと上でしょう」 米介への厳しい目が再び現れる。 しかし、それは娘婿へに対する評価ではなく、職人としてのものだ。 利吉は、湯飲みに半分ほど残っていた茶を飲み干した。 それはすっかり冷めてしまっていた。 「三河屋さん、お弟子さんたちにも話を聞かせてもらいてえんですが」 「そうだな。惣兵衛、構わんか」 「よござんすよ。娘に関わることですから、徹底してお調べいただきたく存じます」 娘を溺愛する父親はそう言って、畳に手を付いた。 それを見た二人は、同じような苦笑いを浮かべた。
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