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「やはり分からなかったなあ」 冬弥はそう言って、伸びをした。 袖が肩の方にずり落ち、小麦を少し薄くしたような色の肌が露わになる。 それは、冬の澄んだ青空によく映えた。 三河屋の弟子たちは主人と違い、寡黙な者ばかりだった。 彼らは一部屋に集まって作業をしていたが、衝立をいくつも立てることで個室のようにし、一人ひとりが集中できるようにしてあった。 時折兄弟子が指示を出す以外、声は聞こえてこない。 代わりに金属を削るすしゅっ、すしゅっという音、金槌をカンカンと振り下ろす音で満ち溢れていた。 二人は衝立の上からひょいひょいと顔を覗かせ、「少しいいか」と声を掛けながら櫛のことを聞いて回ったものの、皆知らぬと言うばかりで芳しい情報は得られなかった。 それならばと、今度は米介とおちかのについて聞いて回ったものの、 「あの二人は側から見てても分かるくらい、相惚れでしたねえ。米の野郎とは年回りもよかったし、まあ自然とそうなったんでしょう」 「お嬢さんはこの作業場が好きだったみてえで、小っせえ頃からここに入り浸ってやした。ご覧の通り、結構尖った道具も多いんですが、米介と二人でその辺のものを叩いたり削ったりして遊びやがるんですよ。危ねえと言っても、やめやしねえ。親方の目が怖ぇのなんのって」 「今でも米介はお嬢さんに品を見てもらってるんですか。あいつ、昔からしょっちゅう、やれ磨きが足りねえ、彫りが甘ぇ、図案が下手だって、お嬢さんに散々っぱら言われてやしたからね。さすがはあのおとっつぁんの血を引いてるだけあって、まるで小親方でしたよ」 と、微笑ましい昔話が出てくるばかりであった。 「弟子の線は消えちまいやしたね」 利吉はすたすたと前を行く黒い背中に向かって、話しかける。 「いや、消えたわけではないぞ」 冬弥はそう答え、急に足を止めた。 二人は吾六長屋へと戻る途中だった。 太陽はほとんど真上、そろそろ昼にしようかという時分だ。 利吉の腹の虫も、鳴るとまではいかないものの、餌を寄越せとばかりに頭をもたげ始めたようである。 今日の昼は何にしようかと頭の隅で考えていた利吉は、慌てて冬弥に合わせて止まる。 「消えてねえってのは」 「俺はな、今回の件、おちかが一枚噛んでいるのはほぼ間違いないだろうと思っている」 「おちか?」 「そうだ」 冬弥は腕を組み、「ああ、もう」と忌々しげに後ろに首を回した。 「利吉」 「へい」 「横に来い」 「へ?」 「後ろを歩かれていては、ろくに話ができん。横に来い」 手招きをする冬弥。 利吉は眉を潜め、ぶんぶんと首を横に振った。 身分が絶対であるこの時代、武士と町人が横に並んで歩くなど許されることではない。 そんなことは当たり前で、理由など考えるまでもなく自然と利吉は冬弥の後ろに付いていた。 話が聞こえづらくとも仕方がないし、後ろに飛び出している刀が当たらぬよう侍の右斜め後ろに位置するのも当然のことだ。 身に染みた慣習である。 なのに、横に来いだって? 「いけやせん。あっしの居場所はここでさあ」 俺ぁ、わきまえてやすよ。 そう伝えたつもりだった。 なのに、冬弥の口は不満そうに尖る。 「お前の意見を聞きたいのだ」 「ここからでもお話はできやす」 「やりにくい」 「あっしは落ち着きやすが」 「顔を合わせて話をしたい」 「だったら、歩きながら話さなきゃいいでしょう」 「まあ……それもそうか」 粘ったわりに、あっさりと頷く冬弥。 そして、よし、と指を鳴らした。 それはパチンと、やけに大きく小気味よく鳴る。 「飯だ。一緒に食おう」 今度は口が開く。 横に並べと言われた時より、ぽかんと間抜けな表情になってしまう。 侍と仲良く飯を食う? この俺が? 今までの利吉からすれば、前代未聞、天変地異、寝耳に水である。 返事がないのをどう取ったのか、冬弥は利吉の方に一歩近寄ると背中を叩いた。 完全に無防備だった利吉は、前につんのめる。 「もちろん俺の奢りだ。さっき、三河屋に渡された金子があるからな」   ほれ、と袖を振る侍。 チャリチャリと、軽やかで高い音が響く。 呆れた。 いつの間にそんなものを受け取っていたのか。 ずっと側にいたのに、まるで気付かなかった。 同心に付け届けをする者が大勢いることは、このお江戸では周知の事実であるが、まさかこの男も受け取る側だったとは。 身分にも金にもまるで無頓着そうなのに、意外だった。 意外? そう思った自分を、慌ててひっぱたく。 もちろん、頭の中でだ。 妙に知った気になりやがって、勘繰るんじゃねえよ。 このお方の人となりなんて、一生分からなくたっていいんだ。 「せしめたわけではないぞ」 またもや返事がないのを責めていると思ったのか、言い訳がましく説明をする冬弥。 「気が付いたら入っていたのだ。返そうとしたが、惣兵衛にどうぞよしなに、と囁かれてな。おちかに何事も起こらぬようお取り計らいください、だと。まったく。大した狐だな」 またもや袖を振る。 先ほどよりぞんざいな動作だったためか、金子は一際楽しげに鳴った。 三河屋惣兵衛という男は、まったく抜け目のない人間である。 掏摸(すり)と紛う手口だ。 ふと、おちかの顔が浮かんだ。 勝気に相手を見つめる瞳。 いつも何か急いでいるように、大股で歩く後ろ姿。 その彼女が今回の件に関わっていると、この同心は考えているらしい。 なぜだ? 「ま、どうせ使い切れん額だ。飯代だけいただいて、あとはおちかに渡してやるさ」 冬弥は目尻を下げて笑った。 そうですね、と相槌を打つ。 二本差しのくせして妙に人情を見せてくるものだから、困惑してしまう。 彼は再び利吉の背を叩くと、元の位置に戻った。 横顔を少しだけこちらに見せる、半歩前。 表情すべてをこちらに晒すわけではないが、後ろから窺うことができる距離だ。 利吉は斜め後ろから、あらためてその姿を見つめた。 「おっ、ちょうどいいところに蕎麦屋があるな。入ろう入ろう」 前を行く侍はそう言い、一件の食事処に入っていく。 「そば」と白抜きされた藍染の暖簾を押し、彼は消えた。 腰の刀だけが、店の敷居から少しはみ出ている。 しかしそれも、程なくして主を追うように吸い込まれいった。 利吉は立ち竦んだ。 彼の後を追うべきなのか、分からず。 それは突然の狼狽だった。 時が止まったかのような、とてつもない感覚。 世界に自分はひとりぼっちだと思う。 ひとりであるなど慣れ切ったことであるのに、なぜかそれが体を縛り上げる。 往来を行く人々の中で、静止しているのは己のみ。 すると、暖簾が揺れた。 藍を押しのけて、冬弥の首が覗く。 「何をしている? 座れる場所があと一つしかない。早く来い」 首はそう言って、亀のように素早く引っ込んだ。 あとに、揺れる「そば」の文字が残る。 白が浮き出て、空を舞う。 すると、その文字を聞きつけたかのようにきゅうっと腹が鳴った。 餌だ、よこせと、虫が喚く。 利吉は一つ、深呼吸をする、 それからようやく、冬弥の後を追って暖簾をくぐった。 店の中は冬弥が言った通り、賑わっていた。 座敷に器を置く場所もないようで、客は皆、あぐらの上に膳を置くか、膳ごと片腕に抱えてなんとか食べている状態だ。 ぎゅうぎゅうと狭苦しい店内は人間だけでなく、ずずっと麺をすする音とつゆの濃い匂いも押し込められている。 冬弥は座敷の隅にいた。 上がることもできないらしく、草履を履いたままなんとか腰掛けている。 刀は腰から外して足の間に挟んでいるが、そんなぞんざいな扱い方をして大丈夫なのだろうか。 刀は武士の魂なのではないのか。 「盛り、二つ」 側を通りがかった女将らしき女を捕まえ、そう注文する冬弥。 はいよ、と彼女が去るのを待って、利吉は冬弥の隣に尻を押し込んだ。 「えらく混んでやすね」 「評判の店なのかもしれんな。これではおちおち話もできんか」 なぜか楽しそうに笑い、冬弥は前屈みになって膝に肘を置く。 刀を抱き抱えるように。 旦那、と利吉は彼を呼んだ。 小声だったので、彼に聞こえたかどうかは心許ない。 なのに、彼は首を回してこちらを見上げてくる。 「おちかさんが一枚噛んでいるとおっしゃいやしたね」 なぜ、そう思うんです。 訊く。 訊いてから、利吉は気付く。 腹の虫なんか言い訳だ。 俺は、このお方の話を聞きたくて暖簾をくぐったんだ。 冬弥はまたもや笑んだ。 微笑だ。 我が意を得たり、とばかりの。 「気になるか」 利吉は唇を引き結んだ。 なんだか悔しい。 今日はずっと、その手のひらの上で踊らされているようだ。 それでも、はいと答えないわけにはいかない。 「大したことではないさ。まだ解決などしていないしな。それでもいいか」 いい。 知りたい。 腹の虫が再び鳴る。 この喧騒で周りには聞こえていないだろうが、利吉は感じた。 こいつが欲しいのは食い物じゃなく、答えだ。 束の間、瞬きより少し長いだけの間、目を瞑る。 それから、隣の同心と同じように前屈みになった。
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