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そばの味に満足した二人が吾六長屋に戻る頃、太陽は大きく西に移動していた。
日の色がほんのり橙に変わり、あとは落ちるように暮れなずんでいくばかりだ。
米介は外で仕事をしていた。
部屋の前に筵を敷いて座り込み、せっせと何かを磨いている。
冬弥と利吉が近付くと、彼は顔を上げた。
二人が誰か分かると、弾かれたように立ち上がる。
「何ぞ分かりやしたか」
期待と不安の入り混じったその表情を見て、冬弥は小さく首を横に振った。
そうですか、とこれまた落胆と安堵がない交ぜになったような顔をする米介。
冬弥の様子から、どうやら下手人が三河屋の人間ではなさそうだと感じたのだろう。
冬弥はそんな彼を見て目を細めると、その手が握り込んでいる鏨を覗き込み、「追い出されたか?」と彼を茶化した。
「いえ、おちかは別に構わないと言ってくれたんですが、静かに休ませてやった方がいいと思いやして」
「お前は思いやりのある亭主だな。では、おちかは眠っているところかな」
「どうでしょう。あっしは昼過ぎからずっとここにおりやすんで」
鼻をすする米介。
さすがに朝と違って子持縞のどてらを着込んではいるものの、一刻以上も外に座り込んでいたのであれば、冷えて冷えて仕方がないだろう。
夫婦揃って寝込むことになるのではないかと、利吉は心配になる。
その愚かともいえる優しさに冬弥も目をぱちくりさせたが、そうかと一言返しただけだった。
それから声を潜め、本題に入る。
「ところで、おちかは三河屋の娘だと聞いたぞ。なぜ黙ってた」
「いや、その、黙ってたわけじゃねえんで。そんなこたあ、関係ねえかと……」
「水くさいやつだ。俺とお前の仲じゃないか」
米介の肩を小突く冬弥。
小突かれた方はまんざらでもなさそうに、へい、などと返事をしている。
利吉は呆れて声も出ない。
何が「俺とお前の仲」だ。
知り合ってまだ十日と経っちゃいねえってのに。
「しかし、親方の娘に手を出すとはな。所帯を持つ時、反対されたりしなかったのか」
「特には……。まあ、親方には散々言われやしたが」
米介はぶるっと震える。
どうやら、寒さのせいではなさそうである。
冬弥も利吉も、彼がくぐったであろう試練に思いを馳せ、哀れみの眼差しを向けた。
「嫌味を言われたり邪魔をされたり、などということもなかったんだな?」
「へい」
「じゃあ、たとえば、おちかに懸想している弟子仲間なんてのも、いなかったわけか」
「……旦那、何をおっしゃりてえんで」
米介の顔が微かに強張っている。
声も低くなり、喉仏がこくりと上下する。
「もしかしたら、と思っただけだ。風呂敷にほかの人間の品を紛れ込ませたり、枕元に簪を置いたりできる人間は誰かと考えたとき、一番簡単にできる者はおちかだろう。だから、もしやとな」
「なんで……なんでおちかが」
血の気が引き始めた米介の顔を前に、冬弥は「まだ確信はないが」と一層声を小さくした。
一歩米介に近付き、こそこそと囁く。
「もしおちかが不義を働いていて、相手が錺職人の見習いだったら、と思ったのだ。それで、相手が早く独り立ちしたがっていたら、とな」
「……おちかはそんなこたあしねえ」
「だといいが、言い切れるか?」
米介は黙っていた。
惚れた女を信じたくて、頭を必死に回転させているようだ。
利吉は再び、冬弥に対する怯えを感じた。
もう少し、自分の女房が下手人かもしれないと聞かされる身を思いやってやれないのか。
これではあまりにも直接的すぎる。
「でも、でも、おちかは心張り棒を外す音を聞いたって」
すがるような声音。
利吉は、彼が哀れで仕方なくなる。
しかし、冬弥の声はいまや冷たく聞こえるほどに静かだった。
「口では何とでも言えるさ。自分に疑いがかからないようにな」
「もちろん、これはあくまで推測でしかねえ。別に下手人がいるのかもしれねえよ」
思わず口を挟んでしまう。
助け舟を出してやらねばと思うほど、米介の顔は土気色だったのだ。
利吉は自分の半歩前にいる冬弥を凝視する。
その横顔からは何も読み取れない。
急に人が変わったようだった。
およそ冬弥らしくないと、不可解な違和を感じる。
井戸端で女房たちと洗濯をしていたあの侍が、こんな斬りつけるような言葉を選んで使うのかと、解せない。
ほとんど知らない赤の他人に踏み込んで相手を懐かせるくせに、こんな、突き放して殴るような言い方をする?
解せない。
彼のことはほとんど何も知らない。
それは十分に分かっている。
だが、それでも腑に落ちない。
何がしたい?
いや……。
はっとする。
もしかして、何かをさせたいのか。
米介に。
不意にごとんと鈍い音がした。
何かと思って下を見ると、先ほどまで米介の手にあったはずの鏨が筵の上に横たわっているのが見えた。
落とされた金属製の道具は、いかにも冷たそうだ。
おちか、と唸り声が聞こえる。
一瞬、米介の声だと分からなかった。
その声が誰から発せられたものか利吉が気付いた時、美しい手がさっと道具を拾い上げた。
彼はそのままくるりと身を翻すと、おちかが寝ているその部屋の障子に手をかけた。
「米介っ」
乱暴に部屋に入っていく彼の後を追い、冬弥と利吉も続く。
どうやら狭い土間に大の男が三人入るのには無理があったようで、部屋に飛び込んだ瞬間、冬弥の腰のものが利吉をどすんと横殴った。
ちくしょう痛ぇ、と思うより先に、冬弥は素早く刀を腰から外して流しの横に立て掛ける。
やけに無駄のない動きだった。
「どうしたの、お前さん」
掠れた声。
おちかだ。
彼女は夜具に包まり、横たわっていた。
利吉の部屋と同じ四畳一間であるが、やはり男やもめのそれとは違い、調具がよく整頓されてある。
火鉢が起こしてあるため部屋は暖かく、時折パチリと火の粉の爆ぜる音がした。
おちかはいかにも病人らしく臥せっていた。
どやどやと押しかけてしまったことを、今さらながら気まずく、後ろめたく思う。
しかし、彼女は布団の中から気丈に微笑み、「ごめんなさいね」と詫びた。
「園田さまもいらっしゃるし、本当は起き上がって挨拶しなきゃなんないんですけど」
「いや、いい、いい。謝らねばならんのはこちらだ。体調の悪いときに申し訳ない」
冬弥がひょこりと頭を下げる。
これだ、これ。
これこそが園田冬弥だ。
この侍には、侍らしからぬ気安さが似合うのである。
利吉はそう、ほっと胸を撫で下ろした。
撫で下ろし、己を叱る。
修羅場はこれからだってのに、妙なことに安心するんじゃねえや。
おちかは夜具から首だけ出して、微笑んだままだった。
夜具といっても、どてらを被せただけのものだ。
それは亭主と同じ、子持縞。
米介は鼻をすすりながら、しかし黙ったまま、乱暴に草履を脱ぎ捨てた。
そのまま飛び跳ねるようにおちかのそばに正座をし、関節が白くなるほどぎゅっと握った拳を太腿に置く。
その手に細長い鋭利な金属を持ったまま。
「おちか、おめえ……」
そう言ったっきり、黙り込む米介。
冬弥と利吉は土間で固唾を飲みながら、少し緊張してその背を見守っている。
おちかは横になったまま、言葉の続かない亭主の顔を覗き込んだ。
「お前さん、どうしたのよ」
きりっとした眉が少しだけ潜められる。
こちらから見えるのは、米介の背とおちかの顔のみだ。
利吉はその顔をしげしげと眺めながら、はて、と首を傾げた。
しかしその時、米介が「おちかっ」と吠えたため、思案はお預けとなる。
「おめえ……おめえ、間男がいるのか」
すうっと息を吸い込む音。
おちかだ。
彼女はそのまま息を止めているのか、ぴくりとも動かない。
対して米介の方は、堰を切ったようにぼろぼろと言葉が溢れてくる。
「どうなんだ、おちか。他に好きな野郎でもできたのか。俺に飽きちまったのか。ここに来てから二人で頑張ってきたじゃねえか。けど、けど、やっぱり俺じゃだめだったってのか。お店暮らしをしてきたお嬢さんに、こんな貧乏暮らしは耐えられなかったってのか。誰だ、おめえをたぶらかしたやつは。そいつを殺して俺も死んでやる! 言え、くそったれのぼんくら野郎の名前を吐きやがれっ」
「まあまあまあ」
止まらない米介を見かねた冬弥が、慌てて間に割って入る。
興奮した男は情けない涙声になりながら、「止めてくんねえっ」と喚いた。
「俺ぁ、情けねえ。必死こいて仕事してる間に、惚れて一緒になったはずの嬶が別の男をこさえてやがったなんて……」
ぐずぐずと鼻をすすりながら、手に持った鏨を振り回す米介。
冬弥の瞳がちらちらとそれを追っている。
取り上げる機会を窺っているのだろう。
おちかは相変わらず、石のように固まったままだ。
「米介」
冬弥がゆっくりと名を呼ぶ。
すると米介は、鏨を握っていない方の袖で、目元をごしごしとこすった。
その機を逃さず、冬弥がするりと凶器を取り上げる。
当の本人は、取り上げられたことにも気が付いていないようだ。
「なあ、一旦落ち着こうじゃないか。お前は気が昂ぶっているし、おちかは何も言えないでいる。一旦ここは利吉に任せて、頭を冷やしに行こう。なっ」
優しくそう諭し、米介を立ち上がらせる冬弥。
彼はなされるがままで、しょんぼりと俯いたまま、冬弥と土間に降りた。
こちらに目配せを送り、冬弥はそのまま米介と出ていってしまう。
戸が閉まった。
パチン、と火鉢が殊更大きく鳴る。
その音は、往来で冬弥が指を鳴らした音に酷似していた。
さて、どうしたものか。
利吉はとりあえず上がり框に腰を下ろす。
あとを任されたはいいが、どう進めるべきなのか。
下手なことを言えば、三行半が突きつけられ、縁が一つ切れてしまうことになる。
それはできれば避けてやりたいものの、すべては目の前のおちか次第なのである。
そのおちかはというと、いまだにだんまりを続けており、自分の上に掛けられているどてらを睨みつけている。
利吉は所在なく首を掻き、半身を捻って彼女の方を向いた。
「おちかさん、あの」
「………」
「米さんはああ言っちゃいるが、本心じゃねえと思いやす」
「………」
「だが、確認させてもらいてえことがあるのはあっしも同じで」
頑として口を開かないおちか。
唇を縫い付けられてしまったのかと思うほどだ。
こりゃあどうにもいけねえや、と気を回すのを諦めた利吉は、ずばり聞くことにした。
「ねえおちかさん、あんた風邪だなんて嘘、なんでついてるんです?」
ふいっと首ごとこちらに向け、ようやく目を合わせるおちか。
きっと結んだ口はそのままで、やはり縫い付けられているに違いない。
利吉は続けた。
「咳も洟も出ちゃいねえし、熱があるってツラでもねえ。寝込むほどの症状は見当たらねえってのに、あっしらが来てもいっさい起き上がろうとしねえ。米さんは誤魔化せても、あっしはだめですよ」
笑いかけてみせる。
しかし、彼女の口は唇が見えなくなるほど引き結ばれたままだ。
利吉は仕方なく、さらに続けた。
「最近、この部屋で物盗りならぬ物増えが起きてると聞きやした。最初は風呂敷から、次はおしぎの上、今朝は枕元に置いてあったらしいじゃねえですか。しかもおちかさんは、昨夜心張り棒を外す音を聞いたそうですね」
返事はない。
ここまで来たら最後まで言って聞かせるしかないだろう。
「けどね、おちかさん。心張り棒なんて外からどう外すんです?」
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