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遡ること、三日前。 利吉はかじかむ手で、数枚の板を肩に担いでいた。 江戸の冬は寒い。 と、聞く。 生まれてこのかた、江戸しか知らぬ利吉にとっては慣れたものであったが、地方から出てきた者は口を揃えてそう言った。 日雇い人足は、地方出身の者が多い。 彼らが多く集まる現場では常にお国言葉が飛び交い、生まれ育った場所について様々が懐かしそうに語る。 それぞれで物語は違ったが、この気候に関して言うことは皆同じだった。 江戸の冬は寒い。 しかし、寒いからといって働かなくていいわけでは、もちろんない。 おまんまのため、今日も利吉はお天道様の下でせっせと板を運んでいた。 これは足場として使う分である。 鳶の者に言いつけられ、近くの材木問屋から分けてもらったのだ。 江戸の花ともてはやされる鳶職の人間は、喧嘩っ早い。 ぐずぐずしていたら、拳の一つや二つは免れない。 できれば痛い思いはしたくないので、利吉はそそくさと使いっ走りに出かけたのであった。 日雇い人足は、定職ではない。 その日その日で違う現場に赴き、汗を流す。 仕事は雑事で、やれそこの穴を掘れ、やれこれを運べと言われたら、その通りに従う。 健康な体を担保に、その日を凌ぐ糧を得るだけの仕事だった。 ひと所に留まらず、明日も明後日も知れぬ身の上ではあるが、不満は感じていない。 ただ、生きる。 目を覚まして飯を食らい、眠る。 そうやって生きていくだけの人生に、満足も不満も感じていなかった。 生はいつか無残に取り上げられると、よく知っているからだ。 利吉に家族はいない。 出稼ぎで地方から出てきた父は、百姓の三男坊だった。 こちらでその日暮らしを続けているうちに通い女中をしていた母と出会い、利吉を成したのだった。 暮らしはもちろん厳しかった。 窮屈な長屋の一室で、粗末な食事、継ぎだらけの着物、薄い寝具に囲まれて育った。 しかし、周りの皆もそうだった。 気後れしたことなど、一度もない。 裕福だからなんだというのだ。 利吉には、自分を慈しんでくれる父と母がいた。 しかしそれは、利吉が十三の年にあっけなく崩れ落ちた。 ——ザシュン。 両親の死を思う時、音を聞く。 風を切る音。 鈍い光を湛えた刃の。 二人は侍に斬り捨てられたのであった。 それから自分の身に起きたことを思い返すと、妙に現実味がない。 記憶を辿っても、景色から色が抜け落ちているのだ。 二人が亡くなった時は確かに桜が舞っていたはずなのに、花弁に色はない。 薄墨色をした、紙切れのようなもの。 利吉の記憶にあるのはそれだけだった。   それから十年。 ただ、生きてきた。 よくぞ一人で立ち上がれたものだと思う。 目の前にあるものは、何でも掴んできた。 細い蔓を掴み、手繰り寄せ、なんとかこの足で起き上がったのだ。 よくやってきたと、己に拍手を送る。 たとえその日暮らしでも、身を落とさなかった。 生真面目に、一歩一歩、下を見て歩んできたのだ。 十分じゃねえか。 そう思う。 満足だとか不満足だとか、そんなことはどうでもいい。 ふと、凍てた風がびゅうっと吹いた。 太陽は確かにそこにあるのに、温もりはほとんど感じない。 この冷たさ。 慣れてはいるが、歓迎するわけではない。 利吉は、肩に乗せた板を担ぎ直した。 と、その時、男が一人、すぐ側を駆け抜けていった。 それがあまりに乱暴だったものだから、少しよろめいてしまう。 脇を通り過ぎる時、荒い息遣いが利吉の耳朶に触れた。 なんだあ? 怪訝に思って遠去かるけばけばしい青色の背中を見つめていると、またもや横を駆けていく男が一人。 利吉はきょとんと、二つめの背を目で追った。   黒の巻羽織と、その羽織の腰辺りから伸びる黒鞘。 同心か。 冷めた気持ちでその後ろ姿を眺める。 同心が男の後を追いかけているということは、捕物の真っ最中なのであろう。 男は身軽に走っていったから、重いものは持っていない。 おおかた財布泥棒といったところか。 さして珍しくもない光景であると判断したところで、利吉は止めていた歩を再び進め始めた。 と、その時。 「あいたっ」 黒い背中がひょいと視界から消える。 ずざん、という荒い音と共に、土埃が舞った。 どうやら同心が転んだらしい。 利吉は思わず彼に駆け寄った。 「旦那、大丈夫ですかい?」 地面に這いつくばっているその同心の側にしゃがみ込む。 黒い背中がもぞもぞと動いた。 「いかん、足を挫いた」 地面にぺたりと座り込み、困ったようにそう呟く同心。 その言葉を聞いた瞬間、利吉は担いだ板を放り出していた。 「あっ、おい!」 背後で自分を呼び止める声がする。 しかし、利吉は走りだした足を止めなかった。 風の向きが変わったらしい。 駆けていく利吉を後ろから励ますように、背を押してくる。 ほつれた(びん)が、そわそわと唇や鼻に絡みつく。 しかし、利吉は気にしなかった。 穴を掘っている最中に脱げてはいけないと、草履ではなく草鞋(わらじ)を履いてきていてよかった。 思う存分に地を蹴り、走ることができる。 力仕事のために、最初から尻を端折って股引を履いてきていたのもよかった。 裾に煩わされずに済む。 身も軽く、駆けていく。 ふと、頭の片隅で声がした。 おい利吉、てめえは一体何してやがる。 あの鳶野郎に殴られるぞ。 しかし、足は止まらなかった。 徐々に息は弾んでくるが、むしろ速度は増していく。 下手人と思しき男は、同心が転んだ隙にすたこら先へ先へと逃げてしまっていた。 それでもまだ、その背中を見失ったわけではない。 へっ、真っ青な波文様なんてえ派手なもん着ちまって。 俺ぁここにいますって、てめえから教えてんじゃねえか。 利吉はにやりと笑う。 笑いながら、行く道を邪魔する者を押しのけていく。 だんだんとその背中が大きくなってきた。 その襟首を掴むまであと三間といったところで、不意に下手人は左に曲がった。 逃すかよ。 利吉も、男が消えた場所で左に飛び込む。 そこは狭い路地だった。 狭いことを利用して両手の建物を繋ぐように紐を渡してあり、そこに洗濯物が干されていた。 所狭しと手拭いや襦袢が並べられているせいで、視界は遮られている。 風に吹かれて、布たちがはたはたと揺れた。 利吉は用心深く、まだ乾き切っていないそれらを暖簾をくぐるように腕で押す。 洗濯物の(とばり)を抜けると、またもや行く手を阻む布の大軍が現れた。 利吉は再び、その湿気った端切れを押しのけようとした。 はっ。 それは微かな息遣いだった。 我慢がきかず、思わず漏れてしまった……そんな吐息。 利吉はわざとそれに気付かないふりをして、向こう側へと押し進んだ。 間髪入れず、押したその布を剥ぎ取る。 うわっと叫び声がした。 目に飛び込んできたのは、毒々しいほど目に染みる青。 人工的な色をした、無粋な青である。 男は再び走り出そうとした。 しかし、利吉はそれを許さなかった。 素早く襟首を掴み、渾身の力を込めて後ろに引く。 男はおもしろいほどにあっけなく、ころりと転がった。 利吉とて、伊達に毎日力仕事をしているわけではないのだ。 「や、やめろ」 喚く男を無視し、思いっきり蹴り上げる。 悲鳴と共にうつ伏せになったところで、その背中に跨った。 先ほどまで追いかけていた背。 そこに無理やり両腕を回させ、剥ぎ取った洗濯物——それは手拭いだった——で両手を縛る。 抜けないよう、しっかりと。 人の物を盗むようで少しばかり申し訳なく思うが、非常時である。 このまま拝借させてもらおう。 男は声にならない呻き声を発していたが、観念したらしかった。 そこでようやく利吉は彼の背中から降り、またもや襟首を掴んだ。 今度は立たせるためだ。 「どちくしょうが、汚ねえ手ぇ使いやがって」 男は立ち上がりながら吐き捨てる。 利吉は後ろに回した手を捻り上げた。 「抜かせ。さっさと歩きな」 その尻を蹴る。 男は恨めしげに頭だけこちらに向けたが、大人しく足を前に出した。  
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