2/6
前へ
/16ページ
次へ
利吉は、自身番などに足を踏み入れたことはなかった。 金輪際、用のない場所のはずだった。 なのに今、彼は太筆の丸の中にでかでかと「番」と書かれた障子の前に立っている。 猫にするように、下手人の首根っこを掴まえて。 俺、何やってんだろう。 そう、ため息をつきたくなる。 否、実際についた。 今頃は仕事に戻っていたはずなのに。 何事もなく一日を終え、酒を一杯飲んで眠るだけの日になるはずだったのに。 なぜ放っておけなかったのかと、今さらながらこの身が恨めしい。 そう悔やんでいると、あと一歩を踏み出さない利吉を不審に思ったのか、捕まえた男が不機嫌そうにこちらを見やってきた。 その顔を睨め付け、「何見てんだ」と凄みを利かせる。 すると、男はぷいっと顔を逸らした。 こうして戸の前で往生していても仕方がない。 とにもかくにも、下手人を引き渡してさっさと戻ろうと腹を決めた利吉は、腰高障子に手をかけた。 「ごめんくだせえ」 そう、訪いを入れる。 すると、書役であろう四十絡みの男が「はいはい」と奥から姿を現した。 「これ」 自分がぶっきらぼうなのは分かっているが、仕方がない。 趣味の悪い着物の男を差し出すと、書役は首を傾げた。 「下手人かね」 「たぶん」 「たぶんって、あんた、手下(てか)か何かじゃないのかい」 「違ぇさ。八丁堀に代わってとっ捕まえてやっただけでえ」  あからさまに「はあ?」という表情を浮かべる書役。 利吉はむすっとしたまま、再度男を差し出した。 「詳しいこたあ知らねえが、こいつぁ八丁堀に追っかけられてた。てえことは、十中八九下手人だろうよ。そのうち、足を挫いたお侍が引き取りに来るさ」 そう言って、青い襟を離す。 離すと、襟はだらしなく潰れていた。 書役は「そういうことかい」と頷く。 「だったら預かろうかね。お前さん、名は?」 「名なんて、どうだっていいだろ」 「何言ってんだい、よくないに決まってるだろ。こちとら旦那にご報告しなきゃなんないんだからね。手が後ろに回ってんのに、下手人が自ら出向いてきたんです、なんて言えるかい。さあ、渋ってないで言いな」 利吉の顔がしかめっ面になる。 名前を控えられるだなんて。 このまま逃げ出してやろうか。 「……利吉」 しかしそれでも、素直に吐いた。 生来が生真面目なせいで、無責任にあばよと手を振ることができなかったのだ。 つくづくこの性格が嫌になる。 あとほんの小匙一杯ほど不真面目が配合されていたら、もう少し生きやすかったかもしれない。 書役は「利吉さんね」と、確かめるように復唱した。 「住まいは?」 「そこまで言わなきゃなんねえのか」 「当たり前さ。利吉なんて名前の男は掃いて捨てるほどいるんだからね。ほら、仏頂面なんてしてないで、大人しく吐きな」 「なんでえ、その言い方は。まるで俺がご詮議にかけられてる気分になるじゃねえか」 書役はけたけた笑う。 さすがは毎日物騒な人間や事柄を相手にしているだけあって、利吉の邪険な物言いに少しも動じない。 腹を立てるでもなく、「早く言いな」と帳面と筆を構えているだけだ。 利吉は渋々口を開いた。 「吾六(ごろく)長屋だ」 はいよ、と筆を滑らせる書役。 「捕らへ者 吾六長屋利吉」とでも書いたに違いない。 利吉はそれを見て束の間鼻に皺を寄せると、くるりと後ろを向いた。 「じゃ、帰る」 「今来たばかりじゃないか。どうだい、茶でも飲んできなよ」 書役がそう誘う。 「冗談じゃねえや。仕事に戻らねえと、クビになっちまわあ」 「下手人と二人っきりだなんて、心細いじゃないか。同心の旦那が来るまで、怯えて待ってなきゃいけないのかい」 彼はそう言って、わざとらしく目を瞬かせた。 「よく言うぜ。口先三寸てのは、あんたみたいなのを言うんだ。仕事しな」 今度こそ、去る。 その姿を、書役は名残惜しそうに見つめた。 「おもしろそうな男なのに、つれないねえ。また来てくれるといいけれど」 ねえ、と大人しく地べたに座り込んでいる下手人に同意を求める。 しかし彼は、「二度とツラぁ見たくねえ」と首を横に振った。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加