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利吉は、自身番などに足を踏み入れたことはなかった。
金輪際、用のない場所のはずだった。
なのに今、彼は太筆の丸の中にでかでかと「番」と書かれた障子の前に立っている。
猫にするように、下手人の首根っこを掴まえて。
俺、何やってんだろう。
そう、ため息をつきたくなる。
否、実際についた。
今頃は仕事に戻っていたはずなのに。
何事もなく一日を終え、酒を一杯飲んで眠るだけの日になるはずだったのに。
なぜ放っておけなかったのかと、今さらながらこの身が恨めしい。
そう悔やんでいると、あと一歩を踏み出さない利吉を不審に思ったのか、捕まえた男が不機嫌そうにこちらを見やってきた。
その顔を睨め付け、「何見てんだ」と凄みを利かせる。
すると、男はぷいっと顔を逸らした。
こうして戸の前で往生していても仕方がない。
とにもかくにも、下手人を引き渡してさっさと戻ろうと腹を決めた利吉は、腰高障子に手をかけた。
「ごめんくだせえ」
そう、訪いを入れる。
すると、書役であろう四十絡みの男が「はいはい」と奥から姿を現した。
「これ」
自分がぶっきらぼうなのは分かっているが、仕方がない。
趣味の悪い着物の男を差し出すと、書役は首を傾げた。
「下手人かね」
「たぶん」
「たぶんって、あんた、手下か何かじゃないのかい」
「違ぇさ。八丁堀に代わってとっ捕まえてやっただけでえ」
あからさまに「はあ?」という表情を浮かべる書役。
利吉はむすっとしたまま、再度男を差し出した。
「詳しいこたあ知らねえが、こいつぁ八丁堀に追っかけられてた。てえことは、十中八九下手人だろうよ。そのうち、足を挫いたお侍が引き取りに来るさ」
そう言って、青い襟を離す。
離すと、襟はだらしなく潰れていた。
書役は「そういうことかい」と頷く。
「だったら預かろうかね。お前さん、名は?」
「名なんて、どうだっていいだろ」
「何言ってんだい、よくないに決まってるだろ。こちとら旦那にご報告しなきゃなんないんだからね。手が後ろに回ってんのに、下手人が自ら出向いてきたんです、なんて言えるかい。さあ、渋ってないで言いな」
利吉の顔がしかめっ面になる。
名前を控えられるだなんて。
このまま逃げ出してやろうか。
「……利吉」
しかしそれでも、素直に吐いた。
生来が生真面目なせいで、無責任にあばよと手を振ることができなかったのだ。
つくづくこの性格が嫌になる。
あとほんの小匙一杯ほど不真面目が配合されていたら、もう少し生きやすかったかもしれない。
書役は「利吉さんね」と、確かめるように復唱した。
「住まいは?」
「そこまで言わなきゃなんねえのか」
「当たり前さ。利吉なんて名前の男は掃いて捨てるほどいるんだからね。ほら、仏頂面なんてしてないで、大人しく吐きな」
「なんでえ、その言い方は。まるで俺がご詮議にかけられてる気分になるじゃねえか」
書役はけたけた笑う。
さすがは毎日物騒な人間や事柄を相手にしているだけあって、利吉の邪険な物言いに少しも動じない。
腹を立てるでもなく、「早く言いな」と帳面と筆を構えているだけだ。
利吉は渋々口を開いた。
「吾六長屋だ」
はいよ、と筆を滑らせる書役。
「捕らへ者 吾六長屋利吉」とでも書いたに違いない。
利吉はそれを見て束の間鼻に皺を寄せると、くるりと後ろを向いた。
「じゃ、帰る」
「今来たばかりじゃないか。どうだい、茶でも飲んできなよ」
書役がそう誘う。
「冗談じゃねえや。仕事に戻らねえと、クビになっちまわあ」
「下手人と二人っきりだなんて、心細いじゃないか。同心の旦那が来るまで、怯えて待ってなきゃいけないのかい」
彼はそう言って、わざとらしく目を瞬かせた。
「よく言うぜ。口先三寸てのは、あんたみたいなのを言うんだ。仕事しな」
今度こそ、去る。
その姿を、書役は名残惜しそうに見つめた。
「おもしろそうな男なのに、つれないねえ。また来てくれるといいけれど」
ねえ、と大人しく地べたに座り込んでいる下手人に同意を求める。
しかし彼は、「二度とツラぁ見たくねえ」と首を横に振った。
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