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三日後、朝。
冷気がするすると戸の隙間から忍び込んでくる長屋の一室で、利吉は朝餉を取っていた。
米と味噌汁と、数切れのたくわん。
ただそれだけではあるが、腹を満たせるだけで御の字だ。
吾六長屋は、二棟の棟割長屋からなるごく普通の、貧乏人のための裏店だ。
隣の部屋とを仕切る薄い壁にはひびが入っているし、腰高障子の立て付けは悪い。
あと一歩のところで出入口としての機能を失うほどだ。
畳など敷いていないため冬の寒さはきついし、窓などないため夏は蒸す。
一日中誰かが喚いているし、誰がいつ厠に行ったかさえ店子全員が把握している始末。
ここは江戸中に建っている他の長屋となんら変わらぬ、おんぼろ長屋だ。
その中の一つ、六畳分の広さの一間。
そこが利吉の住まいだった。
冬の白っぽい陽の光が、障子を通して土間の一角を照らしている。
四角く縁取られた光は、それだけでも部屋を明るくしてくれる。
耳に入ってくる笑い声。
井戸端で洗濯をしている女たちの声だ。
二、三人はいるのだろう、あはははと軽やかに響き渡る。
両隣からも、一日を迎え入れようとする生活の音がする。
どんどんと、床の上を歩き回る足音。
流しを使う水の音。
低く高く、同居人と言葉を交わす声。
いつもと同じ朝だ。
利吉は黙々と箸を動かしていた。
味噌汁から立ち昇る湯気に乗って、むわりと美味そうな匂いが鼻をくすぐる。
汁をすすると、少し辛かった。
味噌を入れすぎたらしい。
しかし、辛ければその分白米が進んだ。
小さな皿に乗せたたくわんは染色したように黄色く、しなりと皺が寄っている。
箸でつまむと、これまた情けなくへなりと左右にしなだれるが、口に放り込むと意外なほど大きなよい音を立てるのだ。
ポリッ、バリッと歯で砕く。
こちらも辛いが、このくらい塩が効いていなければたくわんとは呼べない。
利吉は満足気にもう一枚をつまんだ。
だんっだんっ、だんだんだん。
不意に耳障りな音が耳に飛び込んできた。
うるさいが耳慣れぬものではなく、あれはどぶ板を踏みしめる音である。
それにしても、勢いが良すぎる気はするが。
「すまんが、ここに利吉という男はいるか?」
ふと自分の名前が聞こえてきて、障子の方を見た。
土間の光が目に染みる。
「利吉さん? それならそこの、端から二番目ですよ」
女が答える。
外に出たところを捕まったのだろうか、その声音には怪訝そうな響きが混じっていた。
利吉は何事かと身構える。
こんな朝早くから訪ねてくるなんて、よっぽど急用なのだろうか。
しかし、火急の要件を持ってくるような親しい間柄の者はいないはずだが……。
土間の光に影が差した。
かと思いきや、障子が勢いよく開けられる。
訪ね人はスパンときれいに開くと思ったのだろうが、こんな貧乏長屋でそううまくいくはずがない。
戸は一際大きな音を立てて、半分ほどのところで止まった。
引きつ戻しつ、あと半分がなんとか開けられる。
利吉はその様子を、どうするべきか迷ったままなんとなしに見つめていた。
弱々しくも柔らかい日差しが、先程よりも多くしっかりと部屋に入ってくる。
しかしそれも、一つの影のせいで半分は遮られてしまっていた。
「利吉か?」
陽の光よりずっと明るく、輝いた声。
そこにいたのは、若い侍だった。
小銀杏髷に、黒い巻羽織と二本差し。
利吉はげっと鼻に皺を寄せた。
なんで八丁堀が。
「利吉だ、間違いない」
尋ねたくせに、一人で合点する侍。
彼は押え付けるように片手で障子に寄りかかっている。
息が上がっているようだ。
走ってきやがったのか。
そう思い、利吉はさらに顔を強張らせる。
同心が走ってまでここにきた理由とは、一体何なのか。
彼は我慢しても漏れてしまうといったような笑みを浮かべ、続けた。
「お前がほしい」
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