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わあっと表で歓声が上がった。
女たちの声だ。
黄色い。
わあっというより、きゃあっといった方が正しいかもしれない。
声を上げた中にいたのであろう女が一人、侍の後ろからひょこりと顔を覗かせた。
「利吉さん、男色だったの」
日に焼けた肌に、小さな丸い目と鼻。
愛嬌のある顔立ちをしたその女は、お菊だ。
その言葉を聞き、利吉は慌てて箸を放り出した。
「男前なのにまったく女っ気がないと思ってたら、そうかあ、そうだったんだねえ。でも旦那、身分違いじゃないんですか? 大丈夫?」
きょとんとしている侍。
利吉は裸足のまま土間に下り、彼の腕を引っ張った。
お菊が「やだあ」と嬉しそうに笑う。
「人情本みたいだねえ。身分違いの恋、周囲の反対を押し切って駆け落ち、手に手を取って夜道を忍んでいく二人……」
うっとりするお菊。
いくらなんでも本の読み過ぎである。
「そういうことならあたしたちゃ、利吉さんを応援するからね。追手なら任しときなよ」
「違ぇやすよっ」
「いやあ、こんな男前なのに女が放っておくなんて、おかしいと思ってたんだよね。そっかあ、心に決めた人がいたんだねえ」
「違ぇってのに! 俺は男色じゃねえ。女が好きですからね。おかめだろうがちんくしゃだろうが、女なら誰だって大歓迎な野郎でさあ」
女という言葉をやや強く、はっきりと言う。
お菊は「そーお」と、おどけた表情を浮かべた。
「でもその旦那、利吉さんがほしいって言ってたじゃないの」
「惜しいって言ったんでさあ。二人でちょっとした賭け事をしてやしてね」
「賭けぇ? まさか賭場に行ってるのっ。やめときなよ、それでなくたって金なんかないのにさ」
「賭場なんざ行きやしやせんよ。明日の天気とか、早食い競争とか、そんなお遊びで端金をね」
「ふーん」
お菊は鼻にかけた声で返事をしつつ、尖らせた口は「怪しい」と言わんばかりだ。
利吉は愛想笑いを浮かべ、「じゃ、あっしらは金のやり取りがあるんで」と、彼女の鼻先で戸をぴしゃりと閉めた。
そして振り返る。
振り返ったその顔には、愛想笑いの「あ」の字もない。
「俺は惜しいなどと言っておらんぞ」
同心はちゃっかりと上がり框に腰を下ろし、眉根を寄せている。
ばかやろう、しかめっ面してえのはこっちだ。
すんでのところでそう言いそうになるのを抑え、利吉は彼に詰め寄った。
「どちらさまで」
そう尋ねる。
利吉はこの男を知らなかった。
顔は少し長めだが、均整の取れた場所に目鼻や口が付いているため、そう気にならない。
鼻も口も凡庸だが、奥二重の目を縁取る睫毛がやたらと長かった。
すこし離れた場所からでもそう思うのだから、近くに顔を寄せたら、瞬きをする度に風が起こるに違いない。
大して記憶に残らない顔立ちではあるが、そもそも普段から侍には寄り付かないようにしている。
そのご面相が二枚目だろうが三枚目だろうがどうでもよいし、実際彼の顔は知らなかった。
「覚えていないのか」
少しがっかりしたように眉を下げる侍。
そうすると、子犬を思わせる表情になる。
捨て犬が拾ってほしそうにこちらを見上げてくるときの顔だ。
「俺はこんなにもお前のことが忘れられんというのに……悲しい。実に悲しい」
「前にお会いしたことがあるってんなら謝りやす。ですが、頼みやすからその、誤解を招くような言い方はやめてもらえやすか」
「誤解も何も、これが俺の気持ちだからなあ」
奇妙な侍である。
素直すぎるともいえる言いように、利吉は面食らった。
利吉が知っている武士という人種は皆、肩をいからせて威張っている。
堅苦しい言葉遣いに相応しくつんとすまし、顎を上げてこちらを見下してくるような連中だ。
それがどうだ。
目の前の男を見下ろしているのは、自分の方である。
妙なもんが転がり込んできやがった。
「しかしまあ、確かに会話さえせずにお前は行ってしまったからな。覚えがないのも仕方がないな」
うんうんと頷く侍。
はあ、と利吉は気の抜けた返事をした。
一人で納得されても困る。
「三日前、俺の代わりに下手人を捕らえてくれただろう」
ああ、と呻きに近い声が漏れた。
あれか。
「てえと、旦那はあの時こけたお侍さんで」
「そうだ。思い出してくれたか」
ぱっと明るくなる表情。
利吉は苦笑いに見えないように努めて頷いた。
二本差しのくせに、心ん中が丸見えだ。
武士という人種はそうそう感情を見せるものではないと思うのだが、目の前の男は違うらしい。
落胆も喜びも、それと分かるほどに色に出る。
利吉は小さく息を吐いた。
「お礼だなんだってことでいらしたんなら、別にいいんで。江戸っ子として、当然のことをしただけでやす」
「いや、そうではなくてな。あ、いや、もちろん礼を言いたかったのもある。だが、頼みがあってな」
頼み。
その一言に、半歩後退りをする。
武士からの頼みなど、絶対にろくなものではない。
聞きたくない。
そんな彼に気付いたのか、侍は立ち上がった。
そわそわと懐手をして上目がちにこちらを見やってくるその姿は、想いを打ち明けようとする少女のようだ。
そして意を決したように、利吉がわざわざ空けた半歩を詰めてくる。
嫌な予感がした。
「俺の岡っ引きになってくれ」
げっ。
利吉は目元を引き攣らせる。
「お前しかおらん。俺の、この園田冬弥の岡っ引きになってくれ。この通りだ」
土間に両膝をつく侍。
なんと、頭まで下がっている。
利吉は目を疑った。
侍が、あのお武家が、こんなおんぼろ長屋で手をついてるだって?
心がざわめく。
不穏な気持ちがして、居たたまれない。
目眩がするような心地で、そろりと障子を開けた。
土下座をしている侍——園田冬弥の月代に、日の光が当たる。
肌が眩しく艶めく。
「お……」
利吉は乾いた口を開いた。
味噌の味が、まだ舌にへばりついている。
口だけじゃなく喉まで乾いているのは、辛めの味噌汁のせいなのだろうか。
「お断りしやすっ」
そうして利吉は、脱兎のごとく逃げ出した。
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