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吾六長屋のすぐ側に、廃寺がある。 名を、念光寺といった。 草は生え放題で、入母屋造(いりもやづくり)の屋根は所々崩れて落ちている、絵に描いたような廃寺だ。 夜はもちろん誰も近寄らない。 本尊にあたる場所に人魂が浮いているのを見ただとか、首のない落武者が門の所に立っていただとか、ありきたりな話がまことしやかに語られているせいだ。 そのせいか昼間も人気がなく、時々子供たちが遊び場として使う程度だった。 子供たちが遊ぶのは門から本堂に向かって広がる空き地だけで、そこだけ地面が踏み固められている。 その空き地の左右には、廃寺には似つかわしくないほど立派な紅梅の木が植えられていた。 誰がいつ植えたのかは謎であるが、その木は毎年、見事で可憐な花を咲かせた。 もう少しすると、蕾がつき始める頃になる。 その蕾が開く頃になれば、近所の連中が梅見をしにやってくるだろう。 弁当を持ってくる者も、散歩ついでにぶらりと寄る者もいて、その時期だけこの廃寺は息を吹き返すのだった。 利吉は本堂に続く階段に腰掛け、梅を睨んでいた。 今はまだ寂しげに佇むだけの裸木。 慎ましく、上品に装える日を指折り数え、お互いにじっと寒さを堪える二本の木。 それらに恨みはない。 ないが、この仏頂面を向ける相手が欲しかった。 「また同じ所をやってしまった」 隣で悲痛な声がする。 声の主は冬弥だ。 先ほど利吉の長屋に押しかけてきたあの同心である。 利吉は彼から逃げ出したはずであった。 なのに……。 「あだっ」 駆け出した利吉の背を、派手な音が追いかけてきた。 たらいか何かの大きなものが、地面に落ちた音。 あるいは、誰かがどぶ板に足を引っ掛けて転んだ音。 「あらあ、お侍さん、大丈夫?」 のんびりとした声が聞こえる。 振り返るなと自分に言い聞かせたものの、どうにも気になって仕方がなく、利吉は駆け抜けた路地を辿り直すこととなった。 本当に、本当に、この気性が憎い。 目の前で物事が繰り広げられてしまうと、放っておけない性質(たち)なのである。 迷子らしい子どもが目の前にいれば一緒に親を探してしまうし、夫婦が喧嘩をしていれば仲裁に入ってしまう。 要はお節介なのだ。 そんな自分にほとほと嫌気が差してはいるのだが、生まれ持った気性はそうそう変えられるものではない。 利吉はそんな己へのせめてもの反抗として、横槍入れのあほんだらめ、と小さく毒付いた。 「足をくじいたようだ」 どぶ板の上で座り込んでいるのは、冬弥だった。 利吉を追いかけようと飛び出した瞬間派手に転んだらしく、悲しそうに自分の足首をさすっている。 その頰には、擦り傷と泥が付いていた。 「手当てしましょうか?」 側にしゃがみ込んでいるのは、女房連中の一人、およねだ。 垂れた目にぽってりとした唇。 男たちに「およねさんは色っぽいねえ」と言わしめ、亭主の甚八を「だろ?」と自慢させる顔だ。 とはいえ、その性格はおっとりしている。 呑気とも言えるほどに。 「いや、いい。大したことはないからな」 ははっと笑って立ち上がる冬弥。 しかし、その笑みはすぐに凍りついた。 およねが再びあらあ、と口に手を当てる。 「痛そうねえ。利吉さん、ちょいと冷やしてあげたら? そのお侍さん、利吉さんのお知り合いなんでしょ」 違ぇやす、と利吉が答える前に、冬弥が図々しく「悪いな、手を貸してくれ」と腕を伸ばしてきた。 呆れてものも言えない。 とはいえ、手を貸さないわけにもいかなかった。 座り込んだまま、長屋の連中と世間話など始められてはかなわないからだ。 この侍、皆にあることないことを吹き込みそうで恐ろしいのである。 利吉はため息を一つ落とし、井戸へ行って水を汲んだ。 冬場の、きんきんに冷えた水だ。 それをたらいに入れ替えて小脇に抱えると、冬弥の側に戻った。 そして、手を差し出す。 「お掴まりなせえ」 ぶっきらぼうな物言い。 しかし、冬弥は迷うことなくその手を掴んだ。 しっかりと握手をするように握り込まれ、利吉はその手の暖かさに少しだけ驚く。 他人の手とは、こんなにも(ぬく)いものだったのか。 忘れていた温もりだった。 不意の感嘆に、自分でも戸惑う。 目の前の男が、侍という己と違う生き物ではなく、同じ人間として見えてしまう。 冬弥は利吉の手で立ち上がると、羽織や袴を手でパンパンと払った。 それでも、ぬかるんだ地面でついた汚れはあまり取れない。 「歩けやすか」 「お前が肩を貸してくれるなら」 にっと笑う冬弥。 それを見て、利吉は仕方なく自分の左肩を叩いた。 遠慮を知らないような温かい手がそこに乗せられる。 納戸鼠(なんどねず)に紗綾形をあしらった薄い小袖を通し、置かれた熱が伝わってくる。 「利吉さん、手拭い」 およねがそう言って、どこから持ってきたのかひらりと薄い布をたらいに入れた。 真新しいらしく、雪のように真っ白なそれがぷかりと水に浮かぶ。 「ありがとうごぜえやす」 およねに向かってひょいと頭を下げ、利吉はそのまま歩き出した。 肩に置かれた手は離さんぞとばかりにぐっと利吉を掴んでいるので、彼が動くと冬弥の体も引っ張られる。 「あら、部屋で冷やさないの?」 ゆったりとした声が追いかけてくる。 利吉は顔だけ振り向き、情けない笑みを浮かべた。 「どうやら二人だけで話さなきゃなんねえようで」 「そうなの」 ふーん、とおよねは首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。 ただ、「お侍さん」と冬弥を呼ぶ。 「もう転んじゃだめですよ」   声を掛けられた方は、彼女に背を向けたままひらりと手を振った。  
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