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二
長屋を移ろうか。
近頃、利吉は本気で思案している。
移ろうと思えば、簡単にできるはずだった。
独り身で家財も少なく、仕事も定まっていない軽やかな身の上。
どこでだって生きていける体だ。
なのにそれができない。
それにはもちろん理由がある。
「旦那、おはよ」
外からお菊の明るい声が聞こえてくる。
利吉は部屋を出ようと腰高障子にかけていた手を、思わず引っ込めた。
「おはよう。なんだ、今から朝餉か?」
「そうなの。うちの権太がぐずっちまってさあ」
「ご亭主は?」
「まだ河岸から戻ってきてないのよ。ったく、どこで油売ってんだか」
「売ってるのは魚じゃないのか」
「やだ、一本取られちまった」
楽しそうな笑い声を聞き、利吉は障子の前で動けなくなってしまった。
なるべく気配を消し、なんまんだぶと心の中で手を合わせる。
「あら旦那、今日も来たのねえ」
今度はおよねの声だ。
相変わらずの間延びした物言い。
「およねさんなあに、その洗濯物。多すぎでしょ」
お菊が再び笑う。
あっはっはと大口を開ける、その様子が目に浮かぶようだ。
とその時、障子におよねらしき人影が映った。
こんもりと何かを抱えたような、不恰好な影だ。
それはひょこひょこと移動し、切り絵のような障子の世界から消える。
「隣のおちかさん、体調悪いみたいで、米介さんが困ってたの。だからお洗濯ならあたし、やりましょうかって」
「おやまあ、じゃあ後で何か食べるもの持ってってあげなきゃね。米さんなんて、おちかさんがいなきゃ何にもできやしないんだから。ふふっ、ここらで恩を売っておけば簪の一つや二つ、作ってもらえるかもね」
「下心で人助けをするのは感心せんな、お菊」
「やだねえ、旦那ったら。長屋暮らしなんてのは、持ちつ持たれつだよ」
またもや笑い声。
利吉は意を決してそろりと戸を開けてみる。
日差しが目を射た。
それは向き合って並んだ長屋の、軒と軒の間から溢れているものだ。
光がどぶ板に沿って、太く一筋地面を照らしている。
その明るさに目が慣れるのを待ち、利吉は顔だけ外に出した。
恐る恐る首を右手に向けると、突き当たりの井戸がある場所に数人集まっているのが見えた。
お菊やおよねもその中に混じっている。
そして女ばかりの中に一人、こんなおんぼろ長屋には似つかわしくない、こざっぱりとした黒羽織も紛れていた。
言うまでもなく、冬弥である。
彼は女房連中が洗濯しているのを側で眺め、噂話に耳を傾けていた。
彼がこちらに背を向けているのを確認し、利吉は細く開けた戸から体を押し通すようにして外へ出る。
そのまま息をひそめ、抜き足差し足で左へ、つまり木戸の方、つまりのつまりは井戸端の連中とは逆の方向へと向かった。
間違ってもどぶ板を踏まぬよう、隅を歩いていく。
人がうじゃうじゃしている世界まであと少し、といったところで、利吉は後ろから呼び止められた。
「利吉っつぁん」
誰だ、俺の邪魔をするやつは。
もう少しで、騒がしくも平和な場所に逃げ込めるのに。
そんな恨みが胸を駆け巡る。
それでも利吉は、声を無視することができなかった。
代わりに渾身のため息をつく。
すると、自らの口から白い炎のような息が流れた。
「米さんじゃねえか」
振り返って、口の端だけ吊り上げる。
自分でもその顔が作ったようにしか見えないのは重々承知だが、心の平安がお預けになる恨みは深い。
利吉を呼び止めたのは、「おちかさんがいなきゃ何にもできやしない」米介だった。
おちかというのは彼の女房のことで、米介より二つ三つ歳上の、背筋の伸びた凛とした女である。
姉さん女房を持つ米介は三十をいくつか過ぎたあたりで、中肉中背の至って普通の男だった。
いくらか優柔不断のきらいはあるが、職人としての気概は十分に持ち合わせた男である。
どこにでもいるような男だが、何か特筆するとすれば、その手だろう。
指は細く長く、一見すると女のもののようなのに、骨の浮き出た甲はたくましく、その二面性は美しいと見惚れてしまうほどだ。
所々に傷跡が見えるのは、彼がまだ餝師見習いだった頃につけたものだという。
立派に独り立ちした今は傷付けるこたねえよ、と誇らしげに言うのを聞いたことがあった。
そんな彼が困ったように眉尻を垂らし、こちらにやってくる。
「すまねえな、おでかけかい」
「どうせ口入屋さ」
「そうかい。呼び止めちまって、すまねえ」
二度詫びる米介。
利吉はわざと明るい声を作って、「どうしたんだい」と懐手をした。
冷たい風に晒されて、手がかじかんできていた。
「いや、その、大したことじゃねえっちゃねえんだが」
なら呼び止めたりするんじゃねえよ。
もちろんそう思う。
もちろん言わないが。
「水くせえな。同じ長屋に住んでんだ、家族同然だろ。ほら、遠慮なんざ犬にでも食わせちまいなって」
少し俯いていた顔を上げ、ちょこりと笑う米介。
「それじゃ」と彼は大きく息を吸う。
「園田の旦那と仲がいいことを見込んで頼むんだが……」
げぇ。
その名前を聞いた瞬間、利吉は隣人への老婆心を早速後悔する羽目になるのだった。
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