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「園田さま」
利吉はそう、冬弥を呼んだ。
呼ばれた方は井戸端にしゃがみ込み、女房連中の洗濯を手伝っているところだった。
彼は袖をたすき掛けにし、手を真っ赤にしながら衣類を洗濯板にこすりつけている。
浪人でもない侍に洗濯をさせるなど言語道断に思われるが、相手は冬弥である。
噂話をしていれば「何の話だ?」と割り入ってくるし、どこからか魚を焼いている匂いがしてくれば「味見させてくれ」と、図々しくご相伴に預かるような侍なのだ。
長屋の連中も最初こそ敬遠して疎ましがっていたものの、今ではこの妙な侍を長屋の一員として扱っている節がある。
一所懸命に腕を動かす冬弥を見て、女房たちはきゃらきゃらと楽しそうに笑っていた。
「旦那ったら、柔っちい手だねえ。ほんとにそんなんで、刀なんか扱えるのかい?」
「正直、やっとうの方は苦手でな。しかし、洗濯というのはこんなにも大変なのだなあ……お吉に感謝せねばならん」
「お吉って?」
「下働きの女子だ。まだ我が家にやってきたばかりなのだが、これが無口で泣き言ひとつ言わん。よい子が来てくれたと、加代と喜んでいるところだ」
「加代?」
「俺の妻だ」
へえっと一斉に声が上がる。
「旦那ったら、結婚してらしたのねえ」
「どんな方なの」
「それがなあ」
利吉が背後から彼を呼んだのは、その時だった。
呼ばれた方はぴたりと口をつぐんで振り向いた。
しゃがんだままこちらを見上げる目が利吉を捉えると、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「利吉じゃないか。おはよう。どうした?」
その様子を見て、お菊が呵々と笑った。
「旦那の嬉しそうなこと。ここ何日も通いつめて、初めて利吉さんから声をかけてもらえたんだもんねえ、そりゃあ天にも上る気持ちだろうねえ」
「お菊さん、勘弁してくだせえよ」
「悪いけど、あたしは旦那の味方だよ。観念してさっさと手札をお受け取りよ」
ふん、と鼻を鳴らすお菊。
小さな鼻だというのに、なぜそんなにも大きな音を出せるのか。
「お菊が味方をしてくれるというのなら、利吉を落とせる日も近そうだ」
諸悪の根源はそう言ってにっかりと笑い、お菊とパチンと手を合わせた。
その様子を利吉はじっとりと睨む。
——こんなことになるんだったら、あの時意地でも突っぱねておくんだった。
今さら後悔しても遅いが、今の状況を考えると臍を噛む思いだ。
冬弥は念光寺での一件からこちら、毎日吾六長屋に顔を出すようになっていた。
あろうことか、長屋の実権を握る女房連中と特に親交を深め、利吉を岡っ引きにしたい云々をべらべらと言い触らしてしまったのである。
そのため利吉は、誰かとすれ違う度に諭される羽目になってしまった。
「利吉さんならいい親分になると思う」
「どうして嫌なの。今より稼げるかもよ」
「あんなに見込まれてるんだから、やってみればいいじゃないの」
迷惑千万もいいところである。
のほほんとしたおっちょこちょいのヘボ侍のくせして、とんだ策略家だ。
同心なぞ辞めて、商人にでもなればいいと思う。
利吉は誰かに捕まる度、心の中で毒付いた。
この頃長屋を移りたいと思っていたのは、こういう理由である。
しかし、移るにも何かと手続きがいる。
差配に話を通し、次の長屋を探し、大八車を借りて荷物を運び出す……と、それなりに大掛かりなこととなるのだ。
そうなると、この小さな集団に引越しを隠しておくなど無理、亀に毛が生え、兎に角が生える以上にありえない話だ。
店子にばれないはずがないのだから、冬弥にも伝わるに決まっている。
こうなれば夜逃げかとも思うが、何も悪いことはしていないのにそんなことはしたくなかった。
利吉は咳払いをして、胸を張る。
そして再度、園田さま、と彼を呼んだ。
「折り入って話があるんでやすが」
「話? 俺にか」
そう言って立ち上がる冬弥。
懐から手拭い取り出し、濡れた手を拭く。
「なんだ、言ってみろ」
彼は僅かに目を細めた。
口元は微かに緩んでいるが、その弛緩は決して喜色から来るものではない。
何を持ってきた?
何が舞い込んできた?
細めた目はそう言っている。
お前はきっと、何かに巻き込まれると思っていたぞ。
そんな声もはっきりと聞こえてくるような笑みだ。
利吉は思わず顎を引いた。
嗅ぎ取ってやがるのかよ。
なんという鼻の良さか。
こくりと唾を飲み込む。
これはなかなか……。
いや、結構面倒なお人に目を付けられちまったのかもしれねえな。
「いえ、あっしじゃねえんです」
「え?」
「向こうに人を待たせてあるんで」
木戸側に向かって顎をしゃくる。
人の口に戸は立てられない。
とすれば、聞かれたくない話は実際に戸を立てた向こう側で話すしかないのだ。
冬弥は一瞬不審そうに利吉を見つめたが、すぐにくるりと振り返り、女たちに「すまん」と詫びた。
「手伝えるのはここまでのようだ」
「いいさ、大事な話みたいだしね」
「また明日も来るからな」
来なくていいと利吉は思うが、黙っておく。
冬弥は素早くたすきを取ると、「行こう」とこちらを促した。
へい、と返事をし、冬弥を先に行かせる。
半歩開け、その後ろを追う。
きりっと冷えた風が、頰を刺した。
袖元からも風は忍び込み、肌をくすぐる。
利吉は少し身をすくませるが、前を行く黒い背中はしゃんとしたままだった。
寒空にも負けず、冬弥は進む。
彼がこの冷たさに強いのは名前に冬が付くからだろうか、などというくだらないことが頭に浮かんだ。
そんなはずはないのに。
なんとなしに、どぶ板を踏みしめる白い足袋を履いた足に目が行く。
そういやあ、足の方は大丈夫なのか。
ふと、疑問が浮かんだ。
二度も同じ所を挫いたはずの左足は、滞りなく動いている。
まだ十日と経っていないはずだが、痛みは取れたのだろうか。
そんなことを考えていると、ふと冬弥が足を止め、半身をこちらに向けた。
軒と軒の間の光に照らされ、眩しそうに顔をしかめている。
「待ち人はどこにいる?」
「念光寺でさあ」
「念光寺……あの廃寺か」
頷いてみせる。
「皆に聞かれるとまずいことなのか」
「へい、他の連中にも関わってくることではあるんですが、まずは旦那にご相談をと」
「ほう。厄介そうな話だな」
「というより、奇妙なんで」
「奇妙?」
彼は訝しげに首を傾げたが、その場でそれ以上問うことはなかった。
二人はそのまま木戸をくぐり、表へ出た。
正面には掘割があり、柳がゆらゆらと水面に映っている。
水面の柳が歪んだかと思うと、その上を猪牙舟が滑っていった。
荷を乗せた舟は船頭の意のまま、水の赴くままに進んでいく。
舟が起こしたさざ波が収まると、そこには何事もなかったかのように鎮座する柳が再び現れた。
一方、陸の方は騒がしい。
重そうに天秤棒を担ぎ、商売に向かう棒手振り。
今から普請に向かうのであろう、連れ立って歩く大工たち。
盗んだのであろう魚を咥えて去っていく野良猫。
手習にでも行くのか、子どもたちも数人駆けていく。
掘割に面してずらりと並んだ店は、ほとんど開いているか、その直前だった。
大根やかぼちゃ、ねぎ、にんじんなどが並んだ八百屋に、木綿や紬、更紗、絣などの様々な衣で人々の目を楽しませる端切屋。
店の前を丁稚が掃除をし、主が大声で客を呼び込む。
その声につられ、女が一人二人、店に吸い込まれていく。
ふと、味噌の匂いを嗅いだ。
そういえば切れそうになっていたな、と思い出す。
後で買いに行かなければ。
「朝というのは、いいものだな」
腕を組んだ冬弥が言う。
利吉は半歩後ろに突っ立ったまま、まじまじとその顔を見つめた。
「町の朝はよい。屋敷の方じゃ、こうはいかん」
「だから朝いらっしゃるんで」
「ん?」
「毎日決まって朝に顔を出されるのは、朝の町が好きだからなんで?」
童を諭すように、丁寧に説明をしてやる。
すると、冬弥はそうだな、と片頬を膨らませた。
「それもあるが、朝なら逃げられんだろうと思ってな」
「はい?」
「朝ここに来れば、お前を逃さずに済むと思ってのことだ」
噛んで含めるような言いよう。
先ほどの利吉を真似ているのは、疑いようもない。
利吉が不機嫌そうに口を開いたのを見て、冬弥は笑った。
あはは、と本当に愉快そうに。
「なんて顔をしているんだ。口を閉じろ。行くぞ」
歩き出す冬弥。
利吉は言われた通り、口を閉じる。
両端をぎゅっと下げて。
そうして二人は、人々が行き交う流れに飛び込んだ。
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