国際線ターミナル

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国際線ターミナル

 国際空港に降り立つと、まずはじめに出迎えるのは、その国の体臭とでもいうような土地の匂い。ロサンゼルスならバターシュガーを溶かしたコーヒーの甘い匂い。パリならブルーチーズが香水に溺れたようなデカダンの匂い。ムンバイならミックススパイスのきいたカレーの匂い。北京なら紫蘇や薄荷を煎じた漢方薬の匂い。ソウルならニンニクが浸みたキムチの匂い。東京なら醤油の匂いがするらしい。  夜の七時−。  東京国際空港出発ロビーの時計塔の下で、娘がひとり、人の往き交いをぼんやり眺めていた。片手に提げるくらいの小さな手荷物とパスポートを握りしめていた。  彼女には、この土地から醤油の匂いが湧き立っているとは思いもよらない。けれど、外国から訪れた人たちの鼻をはじめにくすぐるのは、どうやらこの醤油の匂いなのだと知った。土地に醤油の匂いが染みついているのだとすると、土地の人間からもまた醤油の匂いが漂っているのか。自分が発する匂いに当の本人は気づきにくいが、日本と日本人とは醤油の匂いがするらしい。  娘は自分のからだの匂いを嗅いでみた。自分のからだからは醤油の匂いがこみあげているのか。もし、どこか遠い外国の町なかで迷子になってしまったなら、自分はこの醤油の匂いで見つけ出されるだろうか。もし、目の見えない人たちばかりの国で暮らすことがあったなら、この醤油の匂いのなつかしさで、恋人を見つけあったりするだろうか。  娘はいつまでもこんなことを考えている自分がなさけなかったが、笑うに笑えなかった。娘には六年付き合った男との間に結婚話があったが、うまくいかなかった。娘は今、四ヶ月の身重である。 「親がまだ結婚は早いって言ってるんだ。俺たちの結婚は難しすぎるって。」 「まだ早いって、お腹に赤ちゃんがいるのよ。」 「わかってるよ、だから絶対にこの結婚を認めさせる。だから、もう少し待ってくれないか。」 「披露宴はもうしなくていいって、国籍だって隠すようにするって、私は嫁に入るんだから、実家は捨てるつもりだわ。」 「親だって真剣に考えてるんだ。もっと大きな目で俺たちのことを考えてるよ。だからもう少し辛抱して待っていてくれないか。」  いよいよ娘は腹に小魚の泳ぐ感じを覚え、春まで待ったが、ついに結婚は許されなかった。  滑走路の灯りに包まれて、いろんな国の飛行機が、飛んだり降りたりする。展望デッキに空港夜景を眺めて肩を寄せ合う恋人たちが、二、三組あった。夜風に膝を抱えて座っている娘に、男が声をかけた。 「コリアン?」 「日本人ですよ。」 「失礼しました。これから出発ですか?」 「はい。もうすぐ出発なんです。」  娘はそそくさと立った。  飛行機の飛び立つ轟音が耳に障った。  行き先も定まらぬまま、こんなところへ来ている自分がますます哀れだった。  出発ロビーまで戻ってカフェで過ごしていると、今度は年寄りが声をかけて来た。 「チャイニーズ?」 「日本人ですよ。」 「なんだい。娘のひとり旅かい。」 「はい。もうすぐ出発なんです。」 「どこまで行くの?」 「韓国です。」 「そうか。」  娘はもとの時計塔まで戻ってきた。  若い男が大きな帆布のリュックを背負って歩いて来て、娘の隣に腰をおろした。  娘よりかは二つ三つと若い青年だった。 「どうした。なんで泣いてるの?」 「日本のひと?」 「またか。俺は在日だ。日本人でも韓国人でもないよ。」 「そうですか。」 「けど、俺のパスポートを見ろよ。俺はハングルをひとつも読めないのに緑なんだぜ。」 「そうだよね。」 「なんだよ、泣くなよ。」  青年はリュックを肩からおろすと、娘との間にぱんぱんと叩いて置いて、二人の肘掛けにした。 「私も同じ、緑色。」 「ああ知ってるよ。同胞だな。」 「そうね。」 「まあ、パスポートを持てるだけマシだろ。朝鮮のやつらはパスポートすら持てないんだからな。」 「パスポートなんかなくたっていいのよ。」 「それで、これからどこへ行くんだ?」 「どこだろうね。別にどこだっていいの。」 「そうか、旅人か。それで泣いてるってのはどういうわけさ?」 「旅には別れがつきものでしょ。別れは悲しいからね。」 「好きな男にでもフラれたんだろう。旅に出る理由としてはもっともらしい。そういうことにしときな。」 「まあ、そんなとこだね。」と、娘は男の軽さがむしろありがたかった。 「俺はこれから韓国に帰るとこだ。なあ、どうせなら俺と一緒に韓国へ行かないか?」 「ハングルできないのに?」 「君だってそうだろ?俺たちはいろいろ同胞なんだ。楽しい旅になるよ。」 「あなたは韓国に帰るんでしょ。私は帰るとこなんてないもの。」 「違うよ。俺たちには日本にも韓国にも帰る場所があるんだ。俺たちは自由に選べるんだ。だから俺と一緒に韓国へ行こう。」 「私には決められないわ。」 「よし、なら決まりだ。持つべきものは同胞なんだよ。ソウル行きは二十四時−。」  しかし娘は、ラウンジでひとり夜明かしだった。  朝の七時−。  出国審査場で、娘は外国人用ゲートの列を進んだ。 「どちらまで。」 「どちらでも。」  日本よりも韓国よりも遠いどこかへ、飛んでゆきたかった。
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