いつものことです。

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いつものことです。

「ただいま」  玄関で一応家の中に声を掛けてみる。案の定誰からも声が返ってこない。共働き家庭で、両親ともに仕事に忙しいし、兄も社会人になってから一人暮らしをしている。つまり、朱理(あかり)は、今この家で一人である。  腕時計を見ると、まだ夕方の五時。今日の講義は午前中に終わり、バイト先の塾も今日は休みだったので、大学の図書館で基礎ゼミの資料を探していた。思ったよりも時間がかかり、予定していた時間を超えてしまった。図書館から借りてきた資料がトートバッグの中に入っていて、重い。朱理(あかり)はダイニングテーブルにトートバッグを置く。   ピロン  家族グループラインに父と母から同時に連絡が入った。要件は同じで、どちらも仕事で遅くなるし、接待もあるので、夕飯はいらないということだった。父も母も部長職についてから、1週間に何度夕食を共にできるかわからない状態だ。ため息を吐いてから朱理(あかり)は、二階に上がり、自室に入る。 (冷蔵庫に何が残っていたかな)  ぼんやりと頭で冷蔵庫の中身を思い出しながら、スウェットに着替える。夏の日の夕方は、日差しが暑く、部屋の中がモワッとした感じになっている。机の上に置いておいたエアコンのリモコンを手に取り、除湿冷房をつける。しばらくすると涼しくなってきた。  洗面所で丁寧に洗顔をし、お肌の手入れもする。お肌の曲がり角が近くなってきたとよく友人は言うが、朱理(あかり)は特に気にすることもなく基礎化粧品だけで済ませている。  朱理(あかり)の唯一の趣味は星空観察だった。  天体観測といったものではなく、ただ星空を見るのが好きだった。その好きが高じて理科の教師を目指すことはなかった。本当にただ見るだけで将来に生かしたいとかは微塵も考えていない。大学1年生の半ば、受験生活から脱出し、授業にアルバイトにサークルにとそれなりに楽しみながら、大学生活を謳歌している。そう遠くない将来の仕事については、サークルの先輩の就職活動話を聞いて、そろそろ人生設計をしてみようかどうかを始めようという気持ちを持ったくらいだ。  お腹の虫が小さく空腹を訴えた。お昼ご飯を食べてから、何も食べていない。お腹の虫も空腹を訴えたくもなるのだろう。 (何か、食べよう)  パソコンとヘッドマウントディスプレイを起動させてから、キッチンへ向かった。冷蔵庫には金曜日だからか、特に目ぼしい食材が残っていなかった。冷凍庫を漁り、焼きおにぎりを見つける。何個か取り出して、電子レンジで解凍をする。  電子レンジで解凍している間に、食器棚から自分専用の猫のデザインが描かれているマグカップを取り出して、ほうじ茶を入れる。高校卒業後に友人と一緒に旅行した京都で買ったものだ。錦市場で良い香りに誘われたお茶の葉だ。いつも星空観察をするときは、このほうじ茶を飲むことにしている。  チン  解凍を終えた電子レンジが朱理(あかり)に声を掛けた。熱々のまま、ほうじ茶と共に黒色のお盆に載せて部屋に戻る。 (お茶良し、おにぎり良し、マシンセット良し)  全ての準備が整ったところで、朱理(あかり)はソフトを立ち上げ、ヘッドマウントディスプレイをつける。 (今日の気分は、しぶんぎ座流星群かな)  お正月前後に見られる、三大流星群の一つ。昔たまたまテレビをつけていた時に紹介されたこの流星群を見て、朱理(あかり)は星空観察をするようになった。幼い頃、テレビで『本日流星群が見られる!』、『数十年に一度の流星群が!』と報道がされる時は、頑張って夜中に起きていたが、街が明るい東京ではなかなか見えにくかった。  流星群を見るならば、やはりきれいな星空に限る。  朱理(あかり)高校生の頃からアルバイトをして、バイト代を貯め、大学入学とともにヘッドマウントディスプレイを買った。朱理(あかり)はVR世界で見ることが出来るようになってから、夜通し起きて星空を見ることはなくなった。  きれいな星空を映像でも良いから見られたら満足なのだ。 
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