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女はデスクまでやってくると私に書類を差し出した。今しがた彼女が仕上げたばかりのこの表と図はどちらも私が心待ちにしているものだ。書類を渡して手持ち無沙汰になった彼女の腕には力がない。目はどこか遠くを見ているように宙を浮く。私は手渡された書類をその場でパラパラとめくりながら、見るともなく彼女の様子を伺う。
彼女は視線を私に戻すと、思い直したように用意していた話を持ち出した。
「実は残念なお知らせがあるの。」彼女の瞳が真っ直ぐとこちらを見据える。
こういう時の対処法を私は心得ている。書類から目をあげて、まっすぐと彼女の目を見つめ返す。それだけでいい。何も恐れる事はない。これから彼女がどんな話をしだすのか皆目見当もつかないが、わけのわからない話であることだけは確かだからだ。
「オカヒジキの芽が一つも出なかったのよ。」
「ふーん、それで?」やっぱりわけのわからない話だ。私の目は再び書類に落とされ、口が勝手に返事をする。彼女の話は右から左に抜けて行きで、聞いちゃいない。「オカヒジキ」その単語に聞き覚えがあった。でも、それがなんであったのか記憶を辿ろうとはしない。加えて、この話をし出した彼女の意図を探る気もない。話を遮らずに聞く振りだけする。それが私にできる唯一のことであり、彼女への敬意の示し方だ。
「オカヒジキよ。覚えていない?去年お浸しにして持ってきたでしょう?」その目は真剣で、話にはまだまだ続きがありそうだ。今日の彼女はのっている。
「ほら、去年の春から初夏にかけて持ってきて、部屋のみんなで食べたやつ。お醤油とごま油で和えたのは最高に美味しかった。」
彼女は趣味で畑をやっていて、作った野菜を簡単に調理をして時々持ってくる。「オカヒジキのお浸し」はそんな風にして彼女が持ってきた数々の料理のうちの多分どれかなのだろう。
「ほらほら、何度も食べて(松の葉っぱみたいな形をしてシャキシャキして美味しい)って言ってくれたじゃない。(また持ってきましょうか?)って私が聞いたら嬉しそうに(楽しみにしている)って返事をしていたから。今年も期待に応えなくっちゃって私は密かに準備していたのよ。」
「それでキュウリの漬物がどうしたって?」私の頭はようやく彼女の話に少しだけ追いついた。
「キュウリじゃないわ、オカヒジキよ!キュウリはウリ科。スイカや南瓜の仲間じゃない。オカヒジキはヒユ科だから間違えるなら同じ科のほうれん草とかね?それに、あなたが食べたのは(漬物)じゃなくて(お浸し)ね。お浸しは発酵させないから、調理の手間が全然違うのよ。確か塩分濃度もかなり違うはずよ。ええと、漬物を作る時は…」
「ああ、うん。美味しかったよ、あの漬物。それで、オカヒジキがどうしたの?」この褒め言葉は嘘じゃない。彼女が持ってくるものはなかなか美味しい。
「芽が出なかったのよ、一本も。去年はあんなに茂ったのに。ここに何度お浸しを作って持ってきても食べ切れないくらいの量を収穫した。なのに、今年のオカヒジキは無しよ無し。」彼女は話しながら興奮しだした。
「収穫されたものもはお店にも売っているけれど、なかなか手に入らないのよね。それに、美味しさはやっぱり自分で育てたものには叶わないわ。鮮度が全然違うからかしらね。あなたが(美味しい)って言ってくれたあの味は、私が自分で育てたものでないと再現できないのよ!」
「ふーん、それで?」私の思考は一周まわってから、話への無関心な状態へ戻った。口だけが再び適当に返事をする。
「私、種子を蒔いたのよ、この春に。一袋分蒔いて1週間以上経っても芽が生えないから、さらにもう一袋新しく買ってきて蒔き直したの。」
「そうなの?」
「二袋よ二袋!全部蒔いたわ。なのに一本も生えてこなかった。発芽率70%以上保証とあるのに0%よ。0%!何が悪かったのかしら。一体何が。」
「ああ、そう。」私は彼女が「オカヒジキ」の話を切り上げるタイミングを計り始めていた。
「ネットによれば、オカヒジキの種は一回冬眠を経験しないと発芽率が落ちるんですって。でも、去年はそんなことしなくてもちゃんと目が出たのにな。それはたまたまで、やっぱりちゃんと一度冷蔵庫でタネを冷やして冬眠を経験させなきゃダメなのかな。ああ、残念。本当に残念よ。今年あの味が再現できないなんて。ダメだわ、こんなことじゃ。今年の初夏は何を食べたらいいの?そういえば、キュウリは豊作だったわね。ええと、先ほどの話だけど、きゅうりの漬物を御所望だった?」
「ところで君が持ってきてくれたこの図なんだけど。」私は続きを聞かずに本題に入ることにした。
「この図にはスケールが入っていないね。これじゃ大きさがわからないよ。大まかでいいから隅のほうに書き加えてくれないか?それから、縦軸は対数にしてね。ログである事を示す数字の記入も忘れずに。」
「分かったわ。スケールとログね。」返事はすぐに返ってきた。彼女の思考はしっかりとしている。納得してくれたようだ。
「オカヒジキ、きっと種子を蒔くタイミングも悪かったかもね。来年こそはもっと頑張らなくちゃ。」
女の思考というものは並行して走らせることができる。今の彼女にとって「オカヒジキ」は大事な課題なのだろう。気になっていて仕方がないらしいが、私の知ったことではない。彼女の会話が公私混合するのは多分わざとじゃない。長年の付き合いで、私はそう理解している。
何はともあれ、私は彼女がこれから仕上げる図表を楽しみにしている。いい案件が一つ纏められそうだ。
「図は金曜日までに仕上げて欲しいんだ。頼んだよ。できれば今日中にデスクまでにお願い。」私は念を押した。書類を手にした彼女の目はまた虚になり、遠くを見つめ出す。
「オカヒジキ、残念だったね。来年はきっとうまくいくよ。」私は自分の席に向かう彼女の背中に声をかけた。
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