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 生物の教科書を忘れてしまった。入学して一年と三ヵ月、教科書を忘れたことなんて一度もなかったのに。  そんなばかなとバッグはもちろん、机やロッカーにまで探しにいったけれど、やっぱりどこにもない。  そういえば昨日、相変わらず眠る前に永田くんのことだけが頭にうかんでしまったので、もういいかげん忘れなきゃと、生物の教科書をバッグから取りだしたことを思いだした。生物の教科書は英語や数学に比べるとイラストや写真が多く、現代文よりは退屈な内容なので、眠る前にながめるにはちょうどいい本だった。  そのチョイスが功を奏して眠りにはつけたわけだけれど、肝心の教科書をベッドのヘッド部分に置きっぱなしにしてしまった。バッグにしまい直した記憶がない。  教科書を忘れたという事実をついに認めざるを得なくなったとき、わたしの体からはさあっと血の気がひいた。生物の早乙女先生は、この世でいちばん早乙女という名字が似合わない人だった。一言で表すとねちねちした老人という感じで、乙女でもなければ女性でもない。ひとの悪いところをみつけて的確についてくるのがじょうずだった。  だれかに見せてもらうしかない。わたしは視線だけで左右を窺った。  左は一度もしゃべったことがない、いわゆるギャルって感じの女子で、右はいわずもがな栗原さんだ。その二択だったら迷わず栗原さんだけれど、わたしは栗原さんともさして仲がいいというわけではない。  悩んだ末に、わたしは三択目を用意した。教科書なしでなんとかやりすごす、という選択肢だ。  早乙女先生は板書が多い。こちらに背を向けている時間のほうが長いし、ノートをとってさえいれば悪目立ちすることもない。教科書を持っていないということに気づかれる確率は低いだろうとわたしは踏んだ。  覚悟をきめて突き進んだその道には地雷があった。どういう風の吹き回しか、早乙女先生は今日にかぎって板書を一切せず、生徒たちに教科書を読ませていくという、いまのわたしにとっては暴挙にでた。  早乙女先生は、ふだんは目もくれない窓ぎわのとなりのとなりの列という、おもしろみもなにもない列をチョイスして、前から順に読ませていく。  もう遅い。いまさら栗原さんに話しかけたところで余計に目立つし、栗原さんの授業の邪魔になる。話しかけるなら授業が始まる前だったのに、その最適なタイミングをわたしは慢心から逃してしまった。  一縷の望みをかけるとすれば、わたしの目の前で早乙女先生の気分が変わることだけれど、そんな都合のいいことはもちろん起こらなくて、早乙女先生はしゃがれた声で「じゃあ次のひと」といった。  死刑執行だ。わたしは席を立った。
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