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「すみません。教科書を忘れました」  せめてもの抵抗で堂々と白状すると、早乙女先生は白いものが混じる眉を怪訝そうに寄せていった。 「じゃあいままでなにを見ていたんだ?」  なにも見ていません。だって忘れたんですから。  心の中だけでそう屁理屈を返して、口からは答えになっていない「すみません」を繰り返す。  早乙女先生がため息混じりに「じゃあ次のひと」とおそらくはいいかけたところに、栗原さんがすっと教科書を差し出してきた。 「小泉さん、ここからだよ」  そういって、白い指で段落をさす。栗原さんは、わたしが憧れているマニキュアが似合いそうな爪をしていた。わたしの爪は短くてまるいから、どうしてもすらっとしてみえない。  え、べつにもういいんだけど。  なんていうわけにもいかず、栗原さんに促されるがまま震える声で教科書を読んだ。  早乙女先生に怒られてもなんともないというスタンスを、クラスのみんなにも早乙女先生にも、永田くんにも貫きたかったのに。このバイブレーションのような声のせいで、完全にびびっている自分が露呈してしまった。これぞ恥の上塗り。  早乙女先生の「じゃあ次のひと」で、わたしはようやく笑い続けたひざを休ませた。  栗原さんに教科書を返そうと、こそこそと「ありがとう」といったけれど、栗原さんは「返したらどこやってるかわからなくなるよ。一緒に見よう」と、いまさら机を寄せてきた。  あと数十分だけ教科書がなくたって、なんとかなるのに。教科書をそのまま返せれば、授業が終わるころには教室にわたしが怒られたという痕跡はのこらないのに。授業が終わるまでこんないびつな机の並びをしていたら、みんなが忘れてくれないじゃないか。  もやもやとそんなふうに思っていたら、どこからか視線を感じた。視線の糸をたどると、永田くんにたどり着く。  永田くんはこちらを見ていた。むろん、わたしではなく、栗原さんを。膜が張ったような瞳は気味が悪いくらいに潤っていて、あのぷるりとした液体によく似ている。  それを見たしゅんかん、体が煮えたぎるくらいに腹が立った。大体にして、わたしが教科書を忘れてしまったのだって、永田くんのせいなのに。永田くんがあんなことを教室なんかでしていたから。わたしがぐうぜん目撃するはめになって、永田くんのことばかり考えるようになってしまったせいなのに。わたしをだしにして栗原さんに惚れ直すなんて、ゆるせない。  怒りはどうにもこうにもおさまらなくて、なんとかこの恨みを晴らしてやりたいと好機を窺っていたら、休み時間に廊下の向こう側から永田くんがひとりっきりで歩いてきた。  いつもは友だちや女子を数人はべらせているから、こんなチャンスはきっと二度とおとずれない。  わたしになんて見向きもしていない永田くんとすれちがうしゅんかん、いってやった。「教室であんなことしないほうがいいよ」と。
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