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「店長、休憩入ってもいいですか?」
「……え? ごめん、何?」
「休憩です。今日俺、通しなんで」
客が途切れた時間、ぼうっとしていたミカはチャーリーに声をかけられてはっと我に返った。
「ああ、休憩ね。うん、行ってきていいよ」
「はいっ」
赤毛のチャーリーは食事に行くのだろう、いつものピーコートを羽織って軽快に店を出ていった。店内に客は一人しかおらず、ミカは曇り空の外を見ながらまた物思いに耽る。
「……」
あれから一度も、ジェレマイアは姿を見せない。電話やメッセージでの連絡もない。今どこで、どうしているのだろう……。つい彼のことを想っては、叶わぬ想いなのだと思い知ってミカは打ち沈んだ。
(ミカ)
そう呼んでくれる彼の、青い瞳が好きだ。長い指、左利き特有の色っぽい仕草、低く落ち着いた声、抱きしめてくれた逞しい腕が。彼の全てに惹かれているのに、そうとは言えないまま、彼はもう来ないのかもしれない。
ストーカーの魔の手からすんでのところで救ってくれたお礼もできないうちに、もう逢えなくなるの。愛していたのだという元夫とは、つながりの深さも過去の重みも何もかもが敵わない。それでも。
「……ジェリー……」
逢いたいよ。せめてそれだけでも伝えられたらいいのに、電話すらできずにいる自分は相変わらずひどく臆病で、そんな自身がやっぱり嫌いだとミカは思った。
* * * *
「ねえジェリー。一体最近、何をうじうじしてるわけ?」
ついにしびれを切らした様子でクロード・ルイがそんなふうに言うほど、ジェレマイアは目に見えて憔悴していたようだった。「……」とっさに何も言えずに黙り込むと、美貌の天才助手はやれやれ、というように肩をすくめる。
「本当におれ、こんなに休暇とっていいの? 休業でもするつもり?」
「……さあね」
偶然の出会いからコンビを組んで初めての長期休暇の準備に、自身のデスクを片付けながらクロード・ルイが尋ねてくる。適当に答えると、なにそれ、と助手が言った。
「まあいいけどさ。おれ、マルタにいるから何かあったら連絡してよね」
「ん……ゆっくりお休み」
「副業が忙しいからどーだかね。じゃ、またね!」
モニターの電源を落として、ノートPCをバックパックに詰めたクロード・ルイが、栗色の髪を翻して出ていった。これで、事務所には一人きりだ。新規の仕事もいくつも断って、いつここを空けてもいいようにはしたけれど。
「……」
まだ、ジェレマイアは自分の心を決めかねていた。(リフ……)末期の癌に苦しんでいる彼のことを、誰よりも愛していたのは本当だ。まぶたの形や薄い唇、ワインを好んで嗜むところ、上品なスーツをいつも身にまとっている姿、すらりと背の高い容貌……そんな全ては、もう病魔によって失われているのかもしれなくても。
君を、愛している。その言葉だけが欲しかった。一度は信じられなくなって、これ以上苦しむくらいならと離れた。彼の最初の結婚で生まれた子どもたちに、財産目当ての男娼呼ばわりされることにも、もう耐えなくていいのだと。別れた時は自由と孤独を半々に感じた。恋した頃に戻れるならなんだってできると思った。
返信していないうちに届いた、リフからの二通目のメールを開く。病状が思ったよりも悪化していること、早く逢いたいこと。ジェレマイアと別れてから誰とも付き合ってはいないこと。君だけをただ待っている、そう書かれていた。
【今の私を見たら、君は驚くだろうね。それでも、来てくれると信じているよ。】
きっとやせ細り、別人のようになっているのだろうと伺えた。そんなことを書かれたら、少し前までのジェレマイアだったら何もかもを捨てて、すぐに飛んでいっていただろう、彼のもとへ。けれど、今は。
「……ミカ……」
けなげな、凛と輝く三日月のような彼。ロマンティックな名を持つあの青年を、大切に思い始めている。けれどどうすればいいのか、自分は繊細な彼を傷つけてしまうかもしれない。あの長い黒い睫毛が、涙に濡れる所はもう見たくないのに。でも自分がいなくたって彼はきっと、幸せになれる……。
悩みながら、ふとスマートフォンを触ってインスタグラムのアプリを開く。画面をスクロールしていくと、清楚な花が活けられた投稿が目に飛び込んできた。これは。
(ミモザ……?)
愛らしい、黄色いミモザの花束をグラスに活けた写真が、ミカの個人アカウントにアップされていた。いつもはないコメントはたった一言、【I miss you.】。
「……!」
震える指で、黄色いミモザの花言葉を調べる。彼の趣味だと言っていたそれを見つけた時、心臓が止まるかと思った。
(……”秘密の、恋”……?)
涙が、滲んだ。もう何年ぶりだろう涙が。ジェレマイアの青い瞳が潤んで、唇を噛みしめる。ミカ、君はこれを、僕に見せるために? 控えめ過ぎる彼からの、精一杯の伝言に思えて、ジェレマイアの胸は締め付けられる。
やっと、わかったよ。もう迷わない。ジェレマイアはそっと涙を拭って、消したはずでも、頭の中に残っている番号を押した。何度かのコールの末に、繋がって。
「……もしもし? リフ……?」
電話の向こうの力無い声に、僕だよ、と告げた。
* * * *
三日月かなめ。おかしな名前だと自分で思いながら、ミカは部屋の隅のソファに座って、ぼんやりとデカフェのコーヒーを飲んでいた。なんとなく、今日の最後の一杯は店で飲む気がしなくて。帰ってきて部屋着に着替えて、顔も洗って、あとは寝るだけという格好で温かなミルクを入れたデカフェを口にする。
(そういえば、クロード・ルイは長期休暇をもらえたらしいですよ)
マルタ共和国でヴァカンスを過ごすから、よければ遊びにこないかと誘われたとチャーリーが嬉しそうに言っていた。きっと、しばらく事務所を閉めるのだろうとミカは思った。そしてあの金髪の探偵は、遠くにいる元夫のもとへ駆けつけるのだろうと。
「……そりゃ、そうだよね……」
呟くミカは、ひどく孤独だった。もう一度、誰かを愛することができたからこそ、一人でいることが、想いが届かないことが寂しく切なかった。胸の痛みはきっと、しばらく消えることはないだろう。それでいい。自分には、それがお似合いだ。
そろそろ、寝よう。カップを片付けて手を拭いた時、コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。「……?」誰だろう、こんな夜遅くに。不審に思いながら玄関に近づき、扉を開けると。
「……やあ。遅くにごめんよ」
「!」
立っていたのは、にわか雨に降られて少し濡れた様子の、ジェレマイアだった。予想もしていなかった彼の突然の訪問に、どくんと心臓が跳ねる。
「ジェリー……? ど、どうして……」
「君に逢いたくて。入れてもらえるかな?」
「っ! ああ、うん、どうぞ……」
タオルを渡して招き入れると、金髪やコートについたわずかな雫を拭き取りながらジェレマイアが入ってくる。(なんで……)僕に、逢いたくて? そんな馬鹿なと思いながらも、鍵を締めて部屋に戻ると、ジェレマイアは座りもせずに佇んでいた。さよならを、言いにきたの。そう思った時。
「……ミカ。ようやく、わかったよ」
「え……?」
僕を置いて、あなたは行ってしまうんでしょう。そう言いたくても言えないミカに、ジェレマイアはまっすぐ向き直って囁いた。その手が、ミカの手を取る。
「僕に定められた運命は、君に出逢うことだったんだ……君は、僕の三日月だ」
「……っ」
どうして、そんなことを言うの。ミカが目を潤ませて見上げると、背の高い探偵が微笑んだ。
「君は僕の愛、僕の一番大切な人だよ……僕は君を守りたい、君のそばにいたい」
「……ジェリー……っ」
泣かないで。そう囁いて、ジェレマイアの大きな手がミカの頬を包んだ。ぬくもりを感じて、ミカの瞳から涙がこぼれる。
「リフには、別れを告げたよ。愛していたのは過去のことだ……今はもう違う」
もう、彼の笑顔も思い出せないんだ。ジェレマイアの言葉に、ミカは呆然と立ち尽くす。その目の前で、金髪の探偵はミカの手を持ち上げて、その甲にそっと口づけた。
「カナメ・ミカヅキ……愛しているよ。僕の、恋人になってくれる?」
「……!」
言葉を無くして、泣きながら頷くミカを、ジェレマイアが抱きしめる。強く、もう二度と離さないように。ひしと抱き合うふたりは、きっと運命。
* * * *
「……ほんとうに、いいのかい?」
電気を消したベッドの上。枕元のランプの薄明かりにだけ照らされて、一糸まとわぬ姿で抱き合いながら、ジェレマイアは確かめるようにミカに囁いた。
「……うん……」
愛して、ほしい。仰向けに横たわってそう呟く恋人が愛おしくて、ジェレマイアはそっとその唇にくちづける。「ん……っ」ちゅ、と音を立てて深く重なり、舌を差し入れて彼の舌に絡めながら吸い上げると、ふるりとミカの細い体が震えた。
「あっ、……ん、……っ、ぁ……」
首筋にくちづけて甘く吸いながら、彼の中心に手で触れると、びくびくと反応しながらミカが色づいた声を漏らす。何度もキスを繰り返して、怖がらなくていいように優しく抱き寄せる。
(ミカ……)
愛してる。君を、愛している。その優しさも、ひかえめさも、出逢った日から変わらない美しさも。すべて自分のものにしたい、もう離さない。誰にも渡さない、ずっと君を守るよ。誓いのままに、ぎゅっと抱きしめる。
「あっ、あ、あぁ……! ジェリー……っ!」
「好きだよ、ミカ……」
「ん……っ、ぁ、ああ……、僕も……っ!」
涙を零して身を捩る恋人に、もう一度口づけた。夜にひとつになる、僕と君は、オリオンと三日月。
END
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