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「もう、ここの電気を消しても大丈夫ですか?」
シャワーを浴びて借りた部屋着に着替え、先にベッドに入ってスマートフォンを眺めていたいたジェレマイアに、風呂上がりに髪を乾かしたミカが声をかけた。
「うん、僕はいいよ」
「はい」
そう答えて、ミカが寝室の電気を消した。あとはベッドサイドのランプだけが灯っていて、橙色の薄明かりの中でミカがゆっくり近づいてくる。どくんと鼓動が早まるのを押し隠して、ジェレマイアはスマートフォンをサイドボードに置く。
「本当に、ここでいいんですか?」
「言ったよね。君を守るのは僕の意地だよ」
自分は床で寝る、と言って聞かなかったミカを、同じベッドで一緒に寝ることに同意させるのには随分と骨を折った。最後には、ならふたりで床で寝ようかとまで言い、それはさせられないとミカが譲歩する形になったのだった。
「すみません、狭いベッドで……」
何度も謝りながら、そろりとミカが細い体をジェレマイアの隣に滑り込ませる。シャワーを浴びたはずなのに、自分よりもひんやりとした彼の体温を感じて、顔が少し熱くなる。この暗さでは、多少赤らんでも気づかれないだろうけれど。
ぽすん、と枕にミカが小さな頭を乗せる。二つある枕のもう片方にジェレマイアも肘をついて頭を支え、体を横にしてミカに向き直った。薄暗がりのなかで、ふいに見つめ合う。
「なんだか、不思議な感じだね」
「……そうです、ね……この部屋で誰かと寝るの、初めてです」
「……」
それはつまり、夜を共にした相手は久しくいなかったということか。ミカは単純に、誰かと一緒に眠るという意味で言ったのだろうが、その奥の意味をジェレマイアは勝手に汲み取って、また体温が上がるのを感じた。彼はどうして、こんなに蠱惑的なのだろう。静かな夜、ただ一つのベッドに入り、視線でお互いを確かめる。
「……あの……ジェレマイアさんはどうして、探偵になったんですか?」
横たわったまま、巻毛を顔にはりつかせて、ミカが尋ねた。ジェレマイアはその前髪を払ってやりながら、そうだね、と応える。
「単純な話だよ。シャーロック・ホームズに憧れて、前の仕事を辞めて探偵を目指したのさ。探偵なんて、名乗ってしまえばこっちのものだからね」
「そうだったんですか。僕も好きですよ、ホームズ」
「そう? 意外なところで趣味が合うね」
「ふふ……」
薄明かりのなかでミカが嬉しそうに微笑んで、瞳が三日月のように弧を描く。なんて美しい、かけがえのない夜だろう。助けた彼がここにいる。生きている。あと一歩遅ければ刺殺されていただろうことはもう聞いていた。間に合って、本当によかった……。じっとミカの黒い瞳を見つめながらジェレマイアは想っていた。
(ミカ)
彼の眠りを、夢を、安らぎを守りたい。君を救えてよかった。すぐそばにある小さな蕾のような唇にくちづけたいのを堪えて、ジェレマイアは腕を伸ばした。
「……こっちへおいで、ミカ。僕がついているから、安心しておやすみ……」
僕が、君を守るよ。そう囁くと、ミカの眉が寄せられて、一瞬彼が泣き出しそうな顔に見えた。「……はい………」そっと呟いたミカが、腕の中に身を寄せた。
* * * *
(どう、しよう……)
ドキドキ、ドキドキ。胸がはげしく高鳴るのを感じながら、ミカはジェレマイアの長い腕に抱きしめられていた。分厚い胸板と逞しい腕に包まれて、ぬくもりと、昨日まではなかった強い安心感を感じる。ああやっと、これで眠れる……はずが、全く眠気が押し寄せてこない。当然だ、こんなに動悸が激しいのだから。
「……あの、ジェレマイア、さん……」
枕元のランプも消されて、きっと自分の顔の赤みは誰にも気づかれないだろう。そっとミカが声を上げると、ミカをしっかりと抱きしめながら探偵が「なんだい?」と答えた。
「その……ジェリーって、呼んでもいいですか……?」
本当はずっと、そう呼びたかった。あの日飛び出した言葉だけじゃなくて、これからもちゃんと。ミカの問いかけに、ジェレマイアは一瞬黙って、それからぎゅっとミカの体を抱きしめ直した。そうして、すぐ耳元で囁く。
「……もちろん。そう呼んでくれるのを、待ってたよ……」
「……っ」
低くて優しい、甘やかな声に、ミカはうつむいて彼の胸に顔を埋める。もう、何も怖くない。彼が守ってくれる。抱きしめ返すことはできなくても、ジェレマイアは離れていかないだろうと信じられた。彼は、僕の……。
(僕の、探偵さん)
優しく抱きしめられながら、実らなかったいくつかの恋を思い出す。この想いも、そのうちの一つになるのかな。どんなにジェレマイアに綺麗だと言われても、自分に自信がないミカには、彼のような素敵な男性に、自分がこれ以上近づく資格はないとしか思えなくて。でも。
(今は……)
今は、何も考えなくていい。きっとただ一度だけのこの夜に、彼に抱きしめられて、守られていたい。これはおそらく同情と義務感から来る優しさなのだろうと思っても、今はすがっていたかった。一人では、まだ怖くて眠れないから。
「……おやすみなさい、ジェリー……」
「おやすみ、ミカ……」
優しい声に目を閉じると、今までの疲労と張り詰めていた神経がほどけて、ミカはいつの間にか眠りに落ちていった。幸せだった。
* * * *
「で、添い寝だけして帰ってきたわけ? 何やってんの、マジで??」
「……放っといてくれるかな」
ミカの家から出勤してことの顛末を話すと、助手のクロード・ルイは自分のデスクで意味わかんない、と言いながらくるりと高価な自前の椅子を回してみせた。その手には、ミカが二人分持たせてくれたテイクアウト用のコーヒーが握られている。
「一緒のベッドで寝たんでしょ? 普通、そういうことにならない?」
「ならないよ。僕らはその……親しい友達、というか……なんていうか……」
「出た、友達以上恋人未満ってヤツ? そんなに奥手だったのジェリーって」
「だから、ほっといてくれっていうの」
ジェレマイアが、自分でもらしくなかったと思いながら言い返すと、クロード・ルイは少女めいた美貌の頬をぷうっとふくらませる。
「はいはい。あ、チャーリーから電話だ~。今度デートするんだ、いいでしょ」
「……若いもんは、話が早くていいね……」
「うわっ、すっごくオッサンくさい。やめてくんない?」
額をおさえてジェレマイアが呟くと、クロード・ルイはやだやだ、と言いながら電話に出るために席を外した。おそらくはチャーリーとよろしくやるのだろう。なんでそんな簡単に、距離が近づけるんだ? というか僕は、一体今までどうやって恋愛をしていたっけ。わからなくなる。
(はあ……)
愛らしく、凛として美しい三日月のような彼。癖のある黒髪に黒い瞳、象牙色の肌、赤い唇を奪いたくて仕方なかったのに、よく我慢したと自分でも思う。ひょっとしたら、あのまま襲ってしまえば何とかなったかも……いや、そんなことはできない。ミカの信頼を裏切るくらいなら、舌を噛んで死んだほうがマシだった。
(ジェリーって、呼んでもいいですか……?)
何度もそうしてと言っているのに、愛称で呼ぶことさえためらうほど控えめな彼が好きだ。ジェレマイアが起きる前にそっとベッドを抜け出して身支度をして、コーヒーを淹れてくれる彼の優しさが好きだ。自分にだけ、躊躇しながらも見せてくれる弱さが好きだ。数え上げればきりがないのに、どうしようもなくて。
気持ちを押し隠したせいで、昨夜はなかなか寝付けなかった。腕の中で眠った彼の寝顔を見つめて、抱きしめていられる幸せと、それ以上は踏み込めない切なさに引き裂かれて、忘れられない夜になった。ありのままの君が好きだと、言えないまま眠れなくて。
(ああ……)
本当は抱き寄せて覆いかぶさって、その唇に唇で触れて、舌でこじあけて、秘められた場所に触れたかった。誰にも見せない表情を見せてほしかった……けれど、信じ切って身を任せてくれる彼にそんなことはできない。
「……思春期のガキか、僕は……」
自分のデスクで頭を抱えて、どうすればいいのだろうとため息をつく。このまま、友達以上に感じている気持ちを隠して、ミカの店に通えばいいのか。ディナーにでも誘ってみるか? いや、早すぎる? そもそも彼のほうに気持ちがあるのかもわからない。二度と今のようにあの店で安らげなくなるくらいなら、自分の恋心を殺してしまったほうがいいのか……。悩んでいると、ふと一件の未読メールに気づいた。
「……?」
PCで受信していたそのメールの差出人は署名もなく、知らないアドレスだった。【ジェレマイアへ】とだけ書かれた件名を、何も考えずにクリックする。開いた次の瞬間、息が止まりそうになった。「!」これは。この、メールは。
「ジェリー? どうかした?」
PCの前で固まっていると、電話を終えて戻ってきたクロード・ルイが首を傾げて、画面を覗き込んできた。(嘘だ……)唇が、指先が、震える。
「……リフ、が……」
メールに書かれていた名前は、リフ・ロスチャイルド。別れた元夫の名前を二年ぶりに目にして、ジェレマイアは衝撃のあまり固まった。
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