オリオンと三日月

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「今日は珍しく、いい天気だね。ジェリー」 「そうだね。ピクニック日和だ」  月に一度の店休日に誘われて、ミカはジェレマイアと近所の広い公園にやって来た。青々とした草の上に直に座って、自宅で淹れてきたコーヒーを耐熱ボトルからカップに移して探偵に渡す。かしこまった喋り方をやめたミカに、ジェレマイアが笑いかける。 「知ってる? うちのチャーリーは、クロード・ルイ君と出かけてるって」 「ああ、聞いたよ。うまくいってるみたいだね」    コーヒーを受け取って口にしながらジェレマイアが答える。横顔はいつもながら整っていて美しく、彼が誘ってくれたことが嬉しかった。きっと、まだ事件の恐怖を引きずっているミカの気晴らしにと思ってくれたのだろう。 「これ、よかったら食べる?」 「わあ、作ってきてくれたの? 美味しそうだね」 「うん、簡単なものだけど……」  荷物からサンドイッチの入ったバスケットを取り出すと、ジェレマイアは青い目を輝かせる。珍しく雲の少ない晴れた空の下、公園でふたり、自分で作ったサンドイッチとコーヒーでくつろげるなんて。あの檻の中に閉じ込められていた時には、こんな幸せな時間を過ごせるなんて思ってもいなかった。すべて、彼のおかげだ。 「……」  しばし他愛もない会話を交わしながら食事をして、コーヒーのおかわりを注ぐと、金髪の探偵は少しの間黙り込んだ。何か言葉を探しているように見えた。 「……どうか、したの?」  こんな様子は珍しくて、ミカはそっとジェレマイアの顔を伺いながら尋ねた。普段はよく喋る探偵は、ためらった風に眉をひそめてから、口を開いた。 「実は……別れた夫から、メールが来たんだ」 「え……?」  予想もしていなかった言葉にミカが目を見張ると、ジェレマイアはコーヒーを啜って目を伏せる。長い金色の睫毛が震えていた。 「元夫は、リフといって……裕福な実業家だよ。会社をいくつも経営してて……」 「……」  なぜ、そんな話を始めるのだろう。問われてもいないのに話し出したジェレマイアを、ミカはただ見つめることしかできなかった。 「僕は、リフのアシスタントだった。彼はとても、素敵で優しくて……十歳以上の年の差も、立場の違いも忘れて恋に落ちた」  愛してた、と呟いて、ジェレマイアはコーヒーのカップを両手で包んだ。遠い記憶に思いをはせるように。湯気の向こうに、何かを見たいかのように。 「結婚する時も、随分周囲に反対されたけど……僕は平気だった。彼を愛してたから、どんなことでも乗り越えられると思ってた。でも……」 「でも……?」 「……若すぎたんだね、僕は。結局いろんなことがうまくいかなくなって、二年前に離婚した。それで僕は引っ越して、夢だった私立探偵になったんだ」 「……その、リフさんから、急にメールがきたの……?」  恐る恐るミカが尋ねると、そうだよ、とジェレマイアが頷く。精悍な横顔が、何かを迷っているように見えた。 「たぶん、前のメールアドレスなら僕が開かないと思ったんだろうね、新しいアドレスで……そこまでして、僕と連絡が取りたかったんだろう」  じっとミカが見つめる前で、ミカはゆっくりとまばたきをした。空は青く、緑も豊かで、公園にいる人々は楽しげに笑っているのに、彼だけが笑っていない。 「……癌だ、って知らせだった。末期で、余命は半年だって……」 「……!」  死ぬ前にもう一度、君と過ごしたい。メールにはそう書かれていたと、ジェレマイアは言った。胸の奥が切り裂かれるような痛みを感じて、ミカは声を失った。     *    *    *    * 「あれ、ジェリー? 早いね、カフェには行かなかったの?」 「……うん」  重苦しい空気で終わったピクニックの後から、ジェレマイアはミカのカフェに行けずにいた。ショックを受けていた様子の、ミカの顔が忘れられなくて。 (ミカ……)    もう何日も、君に逢っていない。あの話を、するべきではなかったのか。それでもジェレマイアには、彼に話さないという選択肢はなかった。話すべきだと思った。クロード・ルイにさえ打ち明けていないこの出来事を。 「ねえ。それよりほんとに、この新規の案件引き受けなくていいの? 勿体ない」 「……しばらくは、そんな気分じゃないんだ」 「ふうん? 変なの」  もし、自分を求めているリフの元へ駆けつけるなら、仕事は受けられない。かといってそうするとも決めきれず、ジェレマイアは返信もできずに思い悩んでいた。 (ジェレミー、おいで)  年上の、穏やかで優しかったリフ。彼にジェレミーと呼ばれるのが好きだった。憧れてやまず、誰よりも愛していた。彼と出逢って、初めて安らぎを知った。嫉妬も、憎しみも、人間関係の闇の深さも。 「……」  彼に触れられたら死んでもいいと思っていた。アシスタントとして尽くしながら、彼の置いていったジャケットを手にとって、その残り香とぬくもりに包まれたいと涙した夜もあった。自暴自棄になって知らない男についていこうとしたジェレマイアを、リフは気づいて止めてくれた。 (なら言うよ、私は君を愛している)  離してくれと泣いたジェレマイアに、リフはそう言って抱きしめてくれた。上質なコートの胸に抱き寄せられて、生まれてきたことをはじめて神に感謝した。白百合の花束とともにプロポーズされた夜のことも、結婚式の晩にふたりで踊ったことも、幸せだった日々のことも、何もかも覚えている……。 「リフ……」  あの頃、彼だけが世界のすべてだった。愛がいつしか執着に変わり、お互いを疑い、責めて、傷ついて傷つけられて、離れ離れになってからずっと、誰のことも愛せなかった。何度もやり直す夢を見た。自分の弱さを許せなかった。自分がいなくても生きていけるだろうリフの強さも。それが今、彼は自分を必要としている。 【やっとわかった。愛しているのは、今も君だけだ。】  メールに書かれた文字が、ジェレマイアの心を迷わせる。事務所を休業して、病に倒れたリフのいる遠い地方の館へ、今すぐ行くべきなのか。彼の元に駆けつけて、僕が悪かったと、最期までそばにいると、そう言って手を取れば、何もかもやり直せるのか。幸せだったあの頃に、少しの間だけでも戻れるの。 「……っ」  頭を抱えて、ジェレマイアは呻いた。正しい答えなどどこにもないとわかっていても、誰かに救い出してほしかった。     *    *    *    * 「お疲れさまでした!」 「お疲れ様」  遅番まで残っていたチャーリーを送り出し、レジを閉めてミカは最後の一杯のデカフェを淹れた。もう、怪しい視線に悩まされることはない。そして、あの探偵が迎えに来てくれることもない……。こくんと一口飲んで、ため息が漏れた。 (……ジェリー……)  あれ以来、ぱったりと来なくなってしまった探偵を心で呼ぶと、切なさが胸を締め付ける。どうしてこんなに寂しいの。出逢った日から、彼は特別だった。 (僕が、君を守るよ)  その言葉の通り最善を尽くし、間一髪で救ってくれたジェレマイア。もう何日も、いやもしかしたらもう二度と、彼に逢えないことが悲しくて。ひょっとしたらすでに事務所を畳んで、元夫のもとへと旅立ってしまったのかもしれない。自分に、それを止める権利はない。ただの友人、もう依頼人ですらないミカには。 「……」  カップを片付けて、店を閉めて外に出ると、夜空には月と星が輝いていた。それを見上げれば、彼に抱きしめられて眠った夜のことを思い出す。過去を打ち明けて泣いた夜のことも。思い出ばかりがよぎって、ただ切なくて。  ジェリー。あなたは僕を救ってくれた、過去の傷からも敵からも助けてくれた。できることならオリオンと三日月のように、ひとつの夜空に輝きたい。でももう、逢うこともできないの。  今度は僕が、あなたを救いたい。きっと僕らは夜空でめぐり逢えると、そう言ってくれたあなたを。でも、僕にはあなたを守る翼がない。「はぁ……」息を吐いて、ゆっくりと夜の道を歩き出す。たったひとりで、肩を落として。  あなたが、好き。どうしたら、この想いを伝えられるだろう。行き先も分からない気持ちを抱えて、ミカはただ歩いた。彼に逢いたかった。
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