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誰もまだ知らない、運命。
その小さなカフェテリアは、よく雨の降る街の片隅にあった。
「グッドモーニング、ミカ!」
「グッモーニン、チャーリー」
勢いよくガラス戸を開けて入ってきたアルバイトのチャーリーに挨拶を返して、この店【Crescent Moon】の若き店長である”ミカ”こと三日月かなめは「今日のスペシャル」の最初の一杯を淹れた。それを自分のもとに置いて、さらにもう一杯のコーヒーをチャーリーの前に差し出す。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます!」
にかっ、と笑うチャーリーは赤毛の好青年で、お気に入りのピーコートの上に去年ミカが誕生日に贈ったマフラーを巻いている。白いカップ同士を合わせてカチン、と鳴らす、これがふたりの間のお決まりの朝のルーティンだ。
「ん~。今日のも美味しいです、店長」
「うん。この豆にして、やっぱり良かったね」
仕入れ先にサンプルでもらった時から気に入っていた新しい豆を使って淹れたコーヒーは芳しく、フルーツのような華やかな甘みもあり、後味もすっきりとしていてミカの好みに合っていた。店の外に出す黒板にその豆の名前と産地をチョークで書いて、ピーコートとマフラーを脱いだチャーリーに渡す。
「出してきますね!」
「うん」
そろそろ開店時間が近い。扉のすぐ外、濡れない場所に黒板を出しがてら、チャーリーは指示するまでもなく店の入り口周辺を掃除して、ガラス戸を磨いてくれる。その間にミカは店内の最終チェックを終える。
「……うん、よし」
極東の祖国から移住してきたこの国では紅茶が好まれるが、昨今ではコーヒー派も増えて、自家製のマフィンやスコーンの評判もあってこの店は予想よりも繁盛していた。
とはいえ、朝の混雑時間を除けば丁寧にコーヒーを淹れ、常連客と会話するだけの余裕はあるし、近所の紳士淑女たちが新聞を読んだりしながらゆったりと時間を過ごすような、そんな小さな店だった。
「おはよう、ミカ」
「おはよう、ジョー」
ノブに下げていた看板を【Close】から【Open】にひっくり返すと、待ち構えていたかのように常連のひとりであるジョーが入ってきた。この近くのオフィスで働く若い雑誌編集者である彼は、ほぼ毎日やって来ては「今日のスペシャル」とマフィンを頼み、隅の席でメールチェックをしながら朝のひとときをこの店で過ごす。
「はい。今日もがんばって」
「ありがとう。ミカも良い一日を」
コーヒーとマフィンを渡し、電子決済で会計をすませて離れていくジョーを見送る。そうしてまたすぐにやってくる常連たちを迎えているうちに、朝はあっという間に過ぎる。彼らはたいてい同じものを頼み、一言ミカやチャーリーと会話を交わして、タンブラーやボトルを手に颯爽と曇天模様の街へと出ていくのだ。
「……ふう。これで、一段落したかな?」
何十人もの客をさばき終わり、気がつけば開店から二時間が経っていた。チャーリーがテーブルを拭き終えてカウンターへ戻ってくるのに声をかけると、「そうですね」と答えた。ジョーはとっくにオフィスへ出勤し、小さな店内の客はまばらだ。
「チャーリー、授業があるならもう行ってもいいよ?」
「いや、今日は午後だけなんで……朝飯食べてきてもいいですか?」
「あ、そうなの。もちろんいいよ、行ってらっしゃい」
サンドイッチなどが余っていればそれを食べるのが勤労大学生であるチャーリーの朝ご飯なのだが、今日は売り切れてしまっていたので、外に買いに行くために彼はまたピーコートを羽織る。癖のある赤毛が揺れながら出ていくのを眺めながら、ミカは自分のランチはどうしようかと考えていた。すると。
「……こんにちは」
「! こんにちは」
いつの間にか、背の高いニット姿の男が店に入ってきていた。慌てて笑顔で挨拶を返すと、くすんだ金色の長い前髪を払いのけながら、男はふ、と微笑んだ。
(わ……)
ミカが思わず息を呑むほど、それは美しい男だった。モデルか俳優だと言われれば信じるしかないが、なんとなく違う気がした。
「いらっしゃいませ。本日はグァテマラ産のコーヒーがおすすめですよ」
「……じゃあ、それと……あ」
「?」
カウンターを挟んでミカの正面に立った男は、手書きのメニュー表を見て目を少し見開いた。見つけた、というように。その大きな手がポケットから出て、長い指でメニューの一部を指差した。
「これ……アフォガート? できるの?」
「ええ、できますよ。お好きですか」
にこ、と微笑みながらミカが答えると、嬉しそうに男は青い瞳を細めて笑った。そうすると、整った男らしい顔立ちが和らいで、ひどく魅力的だった。どきん、と心臓が跳ねる。
「……うん、好きなんだ。じゃあ、これも追加で。ここで食べていくよ」
「わかりました。席までお持ちしますね」
見かけによらず甘いものが好きらしい男は、アフォガートと今日のスペシャルコーヒーを注文すると、料金を払ってから首をめぐらせた。それでミカには、彼が何を考えているのかすぐにわかった。そういう仕草をする人は皆おなじだ。
「テラスの席なら、煙草を吸っても平気かい?」
「ええ」
やっぱり。ミカが頷くと、安心したように男はガラス戸を出ていった。外にひとテーブルだけ設置してあるテラス席が人気なのは、この国では法律で建物内の喫煙を全面的に禁止しているからだ。男はゆったりとそこに座り、長い脚を組んで、細い煙草を取り出して咥えると、優雅な仕草で火をつけた。
「……」
コーヒーとアフォガートを一人で用意しながら、視界の端でミカは、妙にその男から目が離せなかった。
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