風光る

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 ヴーヴー、と手の中で携帯が震え、ゆりは空を仰ぐのをやめた。画面に「了解」という端的なメッセージが表示されて、彼女は自分の世界に戻り携帯をコートのポケットへしまう。  次の集合場所へ向かう前に、パトロールと称して私もぶらぶらしようかしら。そんなことを考えながら。  四月も半ば。桜はもう散ってしまったものの、きっと樹々に宿った緑色は美しいだろうから。 「あの」  よし、と心の拳を握ったところで、後ろから声が飛んできた。  振り返ると、立っていたのは、キャップを目深く被った青年だった。 「はい?」  はて、なにか用だろうか。思わずきょとん、とゆりは彼を見つめる。黒いパーカーに黒いスキニーパンツ、おまけに黒いマスクと黒ぶち眼鏡。こんな春先だというのに、なんだか妙な格好だ。どんな顔立ちだかはあまりわからなくて、ゆりは内心心構えた。  なんだろう、なにかの勧誘だろうか。  だが、彼はマスクの鼻先を少しさわると、うつむきがちにゆりに手を差し出してきた。 「これ、落としましたよ」  あっ、と、ゆりは一切を忘れて声を上げていた。  その手には、彼女の顔写真がついた一枚のカード。名前も、生年月日も、バッチリ。ゆりは不躾な態度を改めて、すぐさま体を二つに折り曲げる。 「すみません! 拾ってくださったんですね。これ、失くしたら大変で」  職場の身分証だった。どうやら、いつのまにか落としていたそれを、彼は丁寧にも拾ってくれたらしい。  危なかった、これがないとコピー機もパソコンも使えないし、なにも仕事ができなくなってしまう。受け取りながら、ゆりは力の抜けた顔で笑う。 「助かりました」  一瞬、男性の動きがとまった。黒ぶち眼鏡の奥で、丸い瞳と目が合ったのは、気のせいだろうか。目もとしか見えないが、どこか印象的な目をしていた。  不思議に思ってゆりが小首をかしげると、彼はすぐに軽くかぶりを振って帽子のつばで顔を隠すように、自分はこれで、と軽く頭をさげた。 「ありがとうございました」  去っていく彼に、ゆりも同じく頭をさげる。  この大都会で、わざわざ声かけてくれるなんて親切な人もいるものだ。体を起こすと、妙に姿勢のよい背が、段々と小さくなっていくのが見えた。 「どこかで見たことがあるような」  首を捻ったゆりだったが、すぐに、まあいっか、と結論づけて、彼とは反対に歩き出したのだった。
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