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 宇宙船「サルヴェイター」の操縦席で眠っていた男、ジャン・ダイソンは短いまどろみから目を覚ました。  少し頭痛がする。気分を紛らわすために髭をなで、短く刈り込んだブラウンの髪に指を通して頭を掻いた。  ジャンの目の前には船外の様子を映す大きなスクリーンが設置されていた。といっても宇宙を旅している間のほとんどは真っ暗なのだが、ここ最近はひときわ明るく美しい惑星が見えていた。それは地球で彼の生まれ故郷だった。 「もうだいぶ大きく見えるようになってきた」  宇宙に出てから3年になる。火星探査プロジェクトのスタッフや宇宙飛行士の家族は、ジャンたちの帰還を心から待ちわびているはずだ。しかしその事実を思い返すことは、彼をよけいに憂鬱にさせた。 「まさかこんな帰還をするはめになるとは……」  ジャンはため息をついて、頭上にある分厚い強化ガラスのはまった扇形の窓を見上げた。  窓枠いっぱいに広がるのは宇宙の闇でも、星のまたたきでもない。巨大な氷の塊――宇宙船とまったく同じ速度で移動する、冷たく青い彗星だった。  3年前、ジャンと仲間たちは火星有人探査の任を受け、宇宙へと旅立った。最新式の宇宙船に乗り込んだクルーたちの顔は、どれだけ自信と誇りに満ちあふれていたことか。  旅は順調そのものだった。火星の周回軌道へのスムーズな侵入、静かな着陸とランドローバーによる地上走破。すべてが計画通りだった。訓練より順調だったかもしれない程だ。  いよいよ地球へ戻る日がやってきた。火星から飛び立った着陸船を司令機械船が捕らえ、ジャンたちは火星の軌道を離れた。それから一週間が経ったある日のことだった。 「あそこに見えるの、彗星じゃないか?」  最初に気づいたのは、ボリビア系スウェーデン人で金髪のザラ・ラーソンだった。彼女は進行方向とは逆――火星の方を指差していた。  わずかに尾を引いているそれは、確かに彗星だった。最初はケシ粒ぐらいの大きさだった氷の塊は、みるみるうちに大きくなり、肉眼でもはっきりとその姿がとらえられるようになった。誰かが不安そうな声でささやいた。 「宇宙船を追ってくるみたいだ」  ジャンはコンピューターで何度も彗星の軌道をシミューレートしてみた。皮肉なことに計算結果はいつも同じ答えになった。 「ジャン。結論を教えて」 「言えることはふたつだ。あの氷塊のスピードは我々の宇宙船よりもだいぶ速いということ。彗星の軌道がサルヴェイター号の進路とばっちり重なっているということ」  尋ねたザラの血の気が引いていく。彼女だけではなく、全員の心の中に不安と恐怖が伝染していった。  彗星はいちど何かにぶつかったのか、大小の欠片に別れ、それぞれがガスを吹き出していた。なかでも巨大なものは直径が10kmはあろうか。そんな塊が船に接近することで何が起きるのかは、誰にも想像がつかなかった。  乗組員たちは地球の司令室に、彗星の発見と進路についての情報を伝えた。全力で分析し対策案を練ると返事があったが、その後は希望を持てるような連絡をもらえなかった。  焦りながら待つうちに、事態はさらに悪い方へと進行していった。地球との通信状態がどんどん悪くなっていったのだ。氷の星が吹き出すガスのせいかもしれない。何とか聞き取れた声がかすれ、声は雑音となり、やがて通信中を示すランプすら点かなくなった。  ジャンたちに残された討議の時間はわずかしかなかった。 「軌道制御システム(OMS)のエンジン噴射で、軌道を少しずつ変えてみよう」 「元の軌道に戻れる保証がどこある? 永久に宇宙を漂う羽目になる」 「逆に減速してみるというのは?」 「地球の公転軌道に乗れなくなるぞ。間に合うとは思えない」  どの意見も正論が故に、クルーたちは解決策をひとつに絞るのに時間がかかった。そして議論に夢中になりすぎたせいで、もう間に合わなくなっていたことに誰も気づけなかった。 「宇宙船が何か巨大な力によって引っ張られています!」  彗星はいつの間にか見えない手を伸ばし、サルヴェーター号をじわじわと捕まえていた。ジャンたちはあわてて姿勢制御システムのエンジンを噴射したが、遅すぎた。もう船は重力という最強の力から逃れることができなかった。  ジャンたちに出来ることは少なかった。どこにいれば安全か誰にもわからない。ある者は司令室の中で胸に十字を切り、ある者は着陸船に閉じこもって泣きながら、彗星に飲み込まれる瞬間(とき)を待った。 「衝撃防止姿勢!」  誰かが叫んだ。打ち上げの時よりも激しい振動が船を襲う。メリメリと何かが剥がれ落ち、巨大な力が船体をねじ切るような音がした。  ジャンが目を開いた時はすべてが終わっていた。彼は生きていた。そして隣りに座っていたザラも。  操作パネル上は、異常を示すランプが至るところで点滅している。特に目立つLOSSと書かれた赤い文字は、ドッキングしていた着陸船が丸々なくなっていることを示していた。  背後から激しいエア漏れの音がする。ジャンは立ち上がって船の後部にある機械室に向かった。  部屋に入ってすぐ、ジャンは衝撃に震えた。壁から千切れた船体の一部が鋭い刃物となって、二人の宇宙飛行士の頸部と腹部に突き刺さっていた。  ジャンは悟った。着陸船は宇宙に放り出されてしまった。中にいた者たちが生きているとは思えない。これでこのミッションの生存者は彼とザラの二人しかいなくなった。  司令船は無事だったが、状況はさらに悪化していた。ジャンが船外モニタを確認すると、巨大な青い塊がいくつも船の周囲に浮いていた。その距離は一定で、近付くことも離れることもない。  彼はあわてて操作パネルを叩き出した。表示される船の速度の数字をみて驚く。サルヴェーター号は以前観測した彗星と同じスピードで飛んでいた。つまりこの船は彗星郡に取り込まれ、一部となって宇宙を飛んでいるのだ。  背筋に嫌なものが走った。ザラに確認しようと振り向いたが、まだ気を失ったままだ。  自分しかいないのか。ジャンは唾を飲み込んで、まだ動いてくれているコンピューターに向かって数字を打ち込んだ。  画面に映し出された数値と進路図は、恐ろしいぐらいジャンの予想通りだった。 「サルヴェーター号が進む先に僕の故郷がある。この彗星は地球に衝突する」  目覚めたザラに、ジャンは事実を淡々と説明した。  やはりショックだったのだろう。ザラは青ざめた顔でジャンをじっと見つめていた。やがて落ち着いたのか、強い口調で答えた。 「私はこのミッションに志願した時から死ぬ覚悟ができていた。それがさっきの衝突の時か、少し先伸ばしになったかの違いだけさ」  同僚がそこまで強くいられる理由をジャンは知っていた。ザラは独身だったし、両親は彼女が若いうちに亡くなっていたから、地球にいる人たちに未練がないのだ(恋人がいるかまでは聞けてない)。  ザラは彼の心を読んだかのように尋ねた。 「でもジャンは違うんだよな。地球に奥さんと子供も残してきたんだ。辛いだろう」  哀れむような同情の目が、ジャンの心を揺さぶった。 「なあ、あんたはいつも強くて頼れるクルーだった。でもこんな時は、私の胸を借りてもいいと思うよ」  これまで抑え込んできたものが、ジャンの頬に涙となって流れた。ジャンは倒れるように身体をザラに預け、心の底からむせび泣いていた。  結末を知ってしまった二人が過ごす日々は辛いものだった。  何も出来ない。しかし何かをしないわけはいかない。話し合った結果、ジャンとザラはとにかく普段どおりの行動をすることにした。  朝起きて――通じなくても――地球への定期通信を行う。数時間ごとに船内を見回り計器の数値をチェックする。見るのは辛いが、船のコースを再計算してモニタに表示する。  日常業務を行うことで、二人は重圧のなか少しでも心の平静を取り戻そうとしていた。  そんなある日のことだった。 「これは!!」  ジャンがモニタに映った船の軌道を見て、大声を上げた。 「ザラ! 来てくれ!」 「どうしたの、ジャン?」 「見ろ……彗星のコースが、変わって来ているぞ!」 「まさか……これは何かに引き寄せられている?」 「そう。おそらく太陽の引力が、影響しているのかもしれない」 「このままいくと、地球にたどり着く頃には……」  ザラの指がスクリーンを激しく拡大していく。 「ギリギリだけど、地球には当たらない!」  ザラが興奮して叫んだ。  故郷に衝突するという最悪の事態が避けられるかもしれない。もちろんそれが自分たちの命を救うわけではない事はわかっていた。サルヴェーター号が彗星の引力から自由にならない限り、永遠に宇宙を漂う運命は変えられないからだ。  けれど最悪の出来事、母なる地球と同朋たちを宇宙のチリに化すという事態は避けられる。  ジャンとザラは見つめ合い、互いに抱きしめあった。命が助かったということよりも、少しでも運命に抗えたことに感極まって、涙を流した。  彗星は太陽に近づくとさらにスピードを上げていった。そしていつの間に、公転軌道を進む地球と並走するような距離にまで近づいていた。実際は何十万キロも離れているのに、地球は相当な大きさに見えた。  サルヴェーター号の生き残り二人は、窓から見える母なる星を眺めていた。  もうあの故郷に戻れる可能性はほぼ無い。けれども水と雲に包まれた美しい惑星の姿は、ジャンとザラの心を癒やしてくれた。 「この船に乗ることが決まってから、俺は目的地の火星のことしか考えていなかった。だが宇宙に出てみて初めて分かった。一番美しいのは地球なんだ」 「私もそう思う」  そんな会話を交わしていた時だった。地球の表面で何かが大きく輝いた。ひとつ、ふたつ、時が経つにつれ輝点は数を増し、視界にひろがっていく。 「まさか!」 「そんな!」  宇宙飛行士(プロ)である二人には残酷なぐらい理解できた。それは打ち上げられたロケットのエンジンがあげる、巨大な炎の柱だった。  地球から放たれたロケットたちは、宇宙に出てからも速度を緩めず、ぐんぐんと距離を詰めてきていた。 「あれの先端にあるのは宇宙船じゃあない。おそらく核を積んだ弾道弾だ。この彗星を破壊するためのな」 「そんな……私たちがここ(・・)にいるのに!」  ザラががっくりと肩を落とす。 「地球からはちっぽけな船体など、見えるはずもないんだろう。通信か途絶えたサルヴェイター号は、破壊もしくは遭難扱いになったんだ」 「……」 「地球の人々は少しでもリスクを避けようと、核弾頭を積んだミサイルを打ち込むことを選んだ。とても懸命な選択だ」  ジャンは悟ったように語ると、崩れこむザラの前に膝をついた。 「ジャン……ジャン……強がっていたけれど、私もやっぱり怖いよ。頼むから、最後まで私の手を握っていてくれないか」 「ああ」  ジャンは操縦席に座ると、ザラの手に指を重ねた。スクリーンの中で大きくなる光の点を前に、額のうえで小さく十字を切った。 「願わくは、この瞬間まで私たちが生きていたという証が……地球の人々に届かんことを」 『……分析の結果、先日着弾した核ミサイルにより、わずかですが彗星の軌道を変えることに成功しました。これは国際宇宙連合本部からの正式な発表であります。これにより、氷の塊が地球に危害を与える可能性はほぼゼロになりました』 「よかった……本当によかった」  夜の国営放送のニュースを見ていたエマ・ダイソンは、ほっと胸を撫で下ろした。 「ママー!」  アパルトメントの奥から息子の声がする。エマはまだ動悸がおさまらない胸のあたりを押さえながら、ベランダの方へと歩いた。 「ほら、ここから身を乗り出しちゃ危ないって、いつも言ってるでしょ?」 「ねぇ、みてよ! たーっくさんの流れぼし!」 「えっ?」  言われて見上げたエマは息を飲んだ。パリの夜空一面に無数の流れ星が降り注いでいた。  ひとつひとつは一瞬で輝き、消えてしまう。しかし次々とやってくる星たちが、途切れることなく闇を照らし、大都市の空に光の川を作り上げていた。 「ねぇねぇ、これってあの『すいせい』のせいなの? ねぇってばあ」  興奮してエプロンを引っ張る息子のかたわらで、エマは言葉を失っていた。なぜだろう。理由はわからないのに、心に熱いものがこみ上げてくる。エマの青い瞳から自然と滲んできた涙が、頬を流れ落ちた。 「ママ? だいじょうぶ?」 「うん……」  エマは涙をぬぐった。息子の――彼の夫と同じ色の――髪をなで、頭を胸に引き寄せ、抱いた。 「どこか『いたいいたい』なの?」 「平気よ。ただね、ジャンに……パパにもこれを見せてあげたかった。それだけ」 「うん!」 (星還   おわり)
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