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幸福論
「いいんですよ。僕は別に、プロになりたくて頑張ってきたわけではありません」
「知っていますよ。あなたが強くなりたかったのは、彼と気持ちの上で対等でいられるくらいの自信をつけるためでしょう?」
治は、近くにあった囲碁新聞に目を落とした。一面を飾るのは、白秋だ。彼はあの後、残りのタイトルも全て獲得し、見事七冠に輝いた。その後も防衛に成功し、七冠の座をキープし続ける彼は、昨年引退した妹尾安吾の再来とも言われている。
「もう十分だと思いますけどね」
治はにっこり笑ったが、中也は素直に頷けなかった。
「確かに、そうかもしれませんが……。でも最近、思うんです。このままの方がいいのかもしれないって。彼が七冠を達成したのは、僕と別れた後です。その後も順調です。僕が傍にいない方が、彼は幸せかもしれません」
中也の脳裏には、不調から抜け出せず苦しんでいた白秋の姿があった。しかし治は、首を傾げた。
「そうでしょうか。こんなことを言っても、一介のアマチュアのやっかみにしか聞こえないでしょうが、タイトルを獲ったから、七冠だから幸せとは限りませんよ? 彼が幸せかどうかなんて、彼本人にしか分からないことだと僕は思いますがね」
中也はドキリとした。いつかの白秋の台詞が蘇ったのだ。
『僕にとって何が幸せかなんて、僕が決めることだ』
あれは、永原みすずに脅迫され、別れた方がいいのではと中也が口走った時のことだった。あの時白秋は、かつてないほど激しく怒った。彼が自分に手を上げたのは、喧嘩別れした夜を除いては、あの時だけだ。
――自分はまた、同じ間違いを犯そうとしているのだろうか……。
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