遺恨

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遺恨

 しかしいざ秋江と向き合うと、中也は康成の話題に触れることにためらいを覚えた。康成と辰雄の間にあったことを、秋江はすでに知っているからだ。マロンで働き始める際、辰雄は秋江の元を訪れ、謝罪したのである。秋江は、その時点ですでに白秋からあらましを聞いていたらしく、辰雄を恨んではいない様子だったという。  ――それにしても、俺が先生の容態について尋ねてもいいものだろうか……。 「三か月前に分かったんですよ。胃癌です」  中也が言い淀んでいると、秋江の方から語り出した。 「かなり進行していたので、手術も意味が無いと言われました。当初、兄と僕は、そのことを知りませんでした。父が、弟子たちに口止めしていたんです。でも、見かねた弟子の一人が知らせてくれました。何といっても、その時点で余命半年でしたから」  ――あと、三か月の命ではないか……。  中也は、言葉を失った。 「でも、兄も僕も、父の世話をする気なんてさらさらありません。謝礼を払って、世話は弟子たちに任せました。人でなしの兄弟だと思われていますが、どうだっていい。どうしても血縁者が必要な時は行きますが、見舞いには一度しか行っていません。――それから、兄は一度も、父の見舞いには行っていません」 「……」  予想以上の父親への嫌悪感に、中也は言葉を失った。少し考えた後、中也は意を決した。 「僕がどうこう言える立場では無いことはよく分かっています。それでも、秋江先生に聞いて頂きたいことがあります」  そう前置きしてから中也は、康成の引退の理由を秋江に告げた。
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