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娘は母親を忘れてしまった。そう感じていた幸三だったが、娘は母親のことを忘れてなんかいないのだ。
表に出すか出さないかの違いはあっても、大切な人の思い出は、誰の心にもいつまでも染みついている。
「でも私は信じないけどね。この宿で亡くなった人に会えるなんて」
「そうですね。普通は信じられないでしょう。このたぬきが人間に化けるなんて」
春人の声に、恵がぎょっと後ずさりする。春人の隣で、二本足で立つ二匹のたぬきが、にこにこと笑っていたからだ。
「な、なんなの……!」
「気になるようでしたら、来年のお母さまの命日にお越しください」
そう言う春人とたぬきの顔を、恵が交互に見比べている。
「さあさあ、お食事の時間ですよ。よろしければ恵様も、お父様とご一緒にお召し上がりください」
「え、私もいいんですか?」
「もちろんです」
女将がにこやかに微笑んだ。厨房からは、魚を焼く香りが漂ってくる。
「お部屋はこちらになります。どうぞ」
春人が恵の荷物を持ち、部屋へ案内する。二匹のたぬきが恵に手を振る。恵は唖然とした表情のまま、春人のあとについていく。
「申し訳ございません。娘の分まで……」
「いいんですよ。この次はおふたりご一緒に、お泊りでいらしてくださいね」
女将の言葉に、幸三が頭をかく。そんな幸三に佳乃が言った。
「九州なんて、飛行機に乗ればすぐですから」
佳乃の前で、幸三がやっと笑った。
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