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プロローグ
ああ、自分の人生なんてこんなものか。
降りしきる雨に身を打たれながら、思い浮かんだのはそんな言葉だった。こんなもの、と口の中で繰り返すと妙に可笑しくて、声をあげて笑おうとしたが、突き刺すように胸が痛んでかなわない。
(……もう息も満足にできないのね、わたくし)
雨のせいだけでなく霞んだ視界に、地に投げ出した己の手足が入る。雪花石膏の肌は泥だらけの血塗れで、毎日手入れを欠かさなかった桜貝のような爪もぼろぼろだ。でも、全く惜しくはない。
(どれだけ綺麗にしていても、心を尽くしても。殿下にとってわたくしはお飾りに過ぎなかったのね)
『――アンリエット・デュ・ラ・マグノーリア。本日ただいまを以て、君との婚約を解消する!』
ほんの半月前、婚約者から投げつけられた台詞が耳の奥に甦る。ついでにそのとなりで微笑む、辛い戦いを共に乗り越えた、仲間だと思っていた女性の姿も目裏にちらついた。
そこからはもう、驚くほど呆気なかった。ありもしない罪で訴えられて、ろくに取り調べもされないまま国外追放が決まって、気がついたら実家の侯爵家からも勘当されていて。挙げ句の果てに、護送の馬車が崖から転落するという落ちまでついた。あまりにも悲惨すぎて、もはや笑うしかないではないか。
(わたくし、何のために生きてきたのかしら)
家族のため国のため、望まれるままに戦って武勲を挙げる。決められた縁談に沿って粛々と嫁ぎ、子を成して、尊い血を次代に繋ぐ。
自分の使命はそれしかないと、信じて疑わなかったのに。こうやって誰にも看取られず、無惨な死を迎えるとは――
ふいに、視界の端で瞬くものがあった。それがだんだん大きくなるに従って、泥を跳ね上げて走る足音か近付いてくる。むなしさのあまり幻聴を聞いたかと思ったとき、
「――いた! 女の人が倒れてる!!」
「よし、他の皆に集まるよう伝えてくれ! ご婦人、お気を確かに!」
火明りとおぼしき、橙色の光が射し込んだ。力強く凛々しい声の主が、冷えきった身体を抱き起こしてくれる。大きな手が温かい。なぜか、涙が零れた。
(……ああ、ありがとう)
こんなに何かをありがたいと思ったのは、何時ぶりだろう。
もしもまだ、自分に余生があるのなら。このひとの顔を見て、名前を聞いて、ちゃんとお礼を言いたい。そして今度こそ、生きる意味を――
切なる願いが生まれた直後。泥に汚れた細い腕が、力なく垂れ下がった。
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