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追う、ヨーコ ……4
結論から述べると、リョウ兄さんが教えてくれた通り、彼女は洋子といって取引相手の妻だった。いや、正確には内縁の妻というのに当たるはずだ。あの後、アタシ達は通り向こうのケンタッキーで向かい合い、互いに割り勘で買った、12ピースのチキンを頬張りながら会話を勤しみ、そのうえ二人してスマホの電源を落とす、気付けばそんな流れになっていた。久し振りに食べたチキンは美味く、見れば洋子さんなんて、その指先に付いた油までしゃぶっていて、思わず笑ってしまったアタシだったけど、すぐに笑い止んで、呆れることにそれに倣っていた。
いきおい、ベタつく指先を拭おうと予め用意しておいたペーパーを取り上げたアタシを制した洋子さんは、デニムのコートから取り出したウェットティシュの包みからわざわざ一枚摘まみ出して、アタシへ差し出し、こう言った。
「サキちゃん、こっちの方が良いよ」
「あ、すいません」
素直にそうレスって受け取ったアタシは、指先の油を濡れたティシュで拭いながら、内心思ったことを口にした。
「これって、無意味な行為なのに、やっちゃうんだよなぁ」
「そうそう、どーせ食べんのにね。あたしもさ、その度にしちゃうんだよねぇ」
そう言い合うと、二人してもう1ピースずつ取り上げて食べ始めた。
まだ、8つも残っている。
いつも、大体3ピースめまでしか美味しく食べれなかった。あれだけ美味しく感じられる油がその辺りを境にキツくなってくる。そんなことを考えながら箱を見下ろしていたアタシの気持ちを察していた洋子さんは、こう弁明した。
「大丈夫。ディックが、あ、旦那さんね、あの人、チキン好物だからその分も含んでるんだ。あれ、サキちゃんも払ってんだよね、ごめん。あー、別にそれ狙っていたんじゃないんだよ」
アタシは、思わず吹き出してからこうレスった。
「だったらさ、アタシはもういいし」
「大丈夫。もう、歳なんだ、彼。だから、食は細いんだし。ねぇ、サキちゃん?」
ねぇ? と言われてもねぇ。でも、その時に洋子さんが見せたやんわりした表情に誘われたアタシは、ついチキンへ手を伸ばし取り上げてしまった。
ま、実際、腹は減っていたし。
洋子さんは、それを見てニッコリ頷き返すと、今度はこちらの方へと手を伸ばしてきた。アタシがさっきテーブルの端へ置いた使いかけのウェットティシュらしい。気付いたアタシは洋子さんを制して摘まんだそれを渡した。
「サキちゃん、ありがとー」
「ううん。でも、いいの、それで?
「あー、ケチ臭いって思ってる? まだ、使えるからねぇ。ケチなのかな、アタシぃ」
そう言うと、アタシが使わなかった面で指先を拭いだした。
「しっかし、なんでこんな無意味なことしちゃうんだろうね、アタシたち」
そう言って、拭き終えたそれをテーブルの中央に置かれたチキンの箱の傍らへ置いた。
アタシも使いやすいようにという配慮なんだろうな。でも、まだ使う気なの?
箱へ伸ばした手で取り上げたチキンを洋子さんが口へ運んだ。食べながら、その様子を見守っていたアタシは、ムシャムシャと美味しそうに食べる人だな、って改めて思っていると、そんな視線に気付いた洋子さんもやっぱりアタシと同じように食べながらアタシを見詰めていた。アタシたちは食べながら、見詰め合っている内に、どちらからともなく吹き出してしまった。洋子さんはケラケラと楽しそうに笑った。アタシも同じように笑った。と、空いた方の手を伸ばした洋子さんは、テーブルに残った方のアタシの手へそれを重ねるとギュッとした。笑いながら、そんなことをされて、なんだか久し振りにアタシはのぼせた。
その後、アタシたちは15分程してから店を出た。二人は新目白通りまで一緒に歩き、洋子さんはこちが敢えて訊かなかった所にまで踏み込んで話し続けた。
旦那さんはよっぽど無口なんだろうか……、そんなことをぼんやり考えつつ、餅つきの手水担当みたいな役回りに徹した。
洋子さんは52歳で、以前図書館で働いていた時に、本来のアタシの取引相手たる男と知り合い、やがて同居と相成った。 男の名前はディック・ブリスコといって、ベトナム戦争に徴兵で従軍し、下半身不随になり帰国。紆余曲折、90年代後半に来日して今に至るらしかった。紆余曲折の期間は、洋子さんもあまり知らないし、訊いたところで応えてくれず、多分ベトナム絡みでキツい経験を強いられたんじゃないかと洋子さんは考えていた。
また、ディックはベトナムで、身体の自由は失ったものの、代わりに心と、そして精神の自由を得たし、それがあって初めてアジア人への偏見も解消され、お陰で洋子にも会えたんだ、が口癖らしかった。
ところでディックが日本に興味を持ったのは、それこそ紆余曲折の最中に、なんでも軍国主義から戦争放棄の国へと真逆な方向へ舵を切れたのは何故なのか興味をそそられたかららしく、独自の研究の果てに来日し、リサーチをしに通った図書館でそれをサポートしてあげたのが洋子さんだった、そういう物語らしかった。
「じゃ、今日の取引もその流れで?」
「ええ。ここんところ実地に調べたがっているから、渡りに船だって。なんか、刀みたいのやら、軍服みたいのとかも前に買ってんだよね。それと、そういう諸々の集大成をそろそろ形として表現したいみたい」
「形って?」
「詳しくは。でもね、サキちゃん、最近なんだか根を詰めてジーッって考え込んでいるし、アタシは邪魔をしないようにしているの。長い研究の果てがついに来たんじゃないのかな」
そう言った洋子さんは、そのまま黙り込んで、ぼんやり遠くを見詰めていた。 アタシはその視線を追った。前方遠くの信号が赤に変わったところだった。
「ねぇ、サキちゃん?」
「へぇ?」
不意を衝かれてそうレスったアタシは、右隣のその人へ顔を向けた。洋子さんもまたあの柔和な笑顔でアタシを向いていた。
「サキちゃんは、アタシと違ってもてるんだろうねぇ?」
アタシと違って……、そのフレーズが孕む何かが嫌だった。
「まー、なんとなく……」
「男好きするって感じだよね、サキちゃんは……」
そう言い終えた時にも洋子さんは笑顔だったけれど、その瞳はアタシを通り越していまではないどこかへと向けられているような気がした。
神田川に架かる神高橋を渡って間もなく、新目白通りへそろそろ行き着くという頃には、どちらともなく歩くペースがスローダウンしていた。牛歩戦術。
何故?
そんな野暮なことを訊く?
通りの反対側のブックオフを視界の端で捉えながら、アタシは洋子さんへ試しに訊いてみた。
「ねぇ、洋子さん、音楽聴くヒト?」
「アタシ? ロックなら聴くよー、サキちゃん!」
「マジ! ね、どんなロック聴くの?」
「ブライアン・アダムス! 知らないよね、サキちゃん」
「なんでー! 死ぬまで18歳、でしょ?」
「なんでー? 昔、武道館で一緒に歌ったのよ、〝死ぬまで18歳〟ってアタシ」
「あー、確かにライヴ良さそうだよね。アタシ、〝ワン・ナイト・ラヴ・アフェアー〟好きなんだ」
「いやだー、アタシも好きよ。『レックレス』はアタシの青春だよ、サキちゃん」
「へぇー。あ、ねぇ、ウチさ中古レコード屋やってんだよ、って言うか雇われだけどさ。良かったらさ、今度おいでよ? 『レックレス』だってあるから」
「行きたいな。うん、きっと行くから! ねぇ、お店どの辺?」
アタシは訊いてみて良かったなってつくづく思いながら、新目白通りの横断歩道前で立ち止まり、互いの連絡先を交換してから別れた。
洋子さんは今来た通りの反対側へ、アタシはそのまま真っ直ぐに信号を渡った。別れ際の洋子さんのフルスロットルな笑顔が脳裏に焼き付いたし、信号を渡って行く間に見送ったあの猫背、自分でパラボラみたいって笑っていた左右に拡がった両耳、ちょっとだけ右より長いという左の足を引いて歩く後ろ姿、そんな全てがどうにもアタシの内部を温かくしてくれた。その右手で揺れるチェックのショッピングバッグですらも……。
アタシは取り出したスマホの電源を入れると、残された多くの着信履歴に急かされるように、リョウ兄さんへ連絡を入れることにした。
続く
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