媚薬遊び

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 ……混乱する。そりゃあもう大混乱だ。  この世の理不尽さには慣れっ子のはずの俺でも、 「待ってぇぇ痛い痛い痛い!」  原因さえ忘れたつまらない喧嘩をして、つい『絶交だ』なんて叫んでしまったら、激昂した先輩がいきなり縄を取り出してきて。手首を縛られるなんてのは、さすがに予想外で。  驚き過ぎて動けなくなった俺を尻目に、怒りの先輩は道端でペンを取り出し『私物さわるな(ミケ)』と端切れに書き殴り、この胸元に名札よろしくチクチクと縫いつけてきた。  そのまま囚人のように手を引かれて、連れて来られたのが共に通う大学付近のお一人暮らしの先輩のアパートで。 「怖い怖い怖い、ねえどうしたっていうんです!」  騒いでもこちらには一瞥もくれない。左手に縄を掴んだまま先輩は右手でドアを開けた。  部屋に光が差し込んで、浮遊するほこりがきらきらと照らされる。綺麗だ、なんて思う余裕は微塵もないけれど。 「ねぇ悪かったですって、絶交なんて嘘ですってば! ねぇそんなに怒ることなくない!?」  こんなことなら別々に帰るんだった。レポート作成の徹夜明けにこの仕打ちって、前世で何か悪いことでもしたっけ?  俺の弁解なんて聞いちゃいない先輩に無理やり壁に押し付けられて、左右の柱に通した縄で両手首を拘束された。ーー嘘だろう? 「ちょ……っと、ねぇ待っ……て! 冗談にしてもキツ過ぎですって、狂ってますって、もういいかげんにーー」  言い終わる前にふい打ちに唇を塞がれ、目の前にちかちかと星が舞った。  何か甘苦いものが口移しで送られて来る。舌先でぐいと喉元まで押し込まれて、むせりそうになる拍子に飲み込んで。  毒? いやまさか、さすがに殺したいほど憎まれてはいないはず。……そのはずなんだけど。  でも飲み下した甘い毒が、いつ胃の腑を破るのか……想像し出すと、恐ろしくてたまらない。 「怖いよ……ねぇ俺、死ぬんですか? 先輩に殺されて? そんなのってーー」 「まさか、殺したりしないよ。俺を誰だと思ってんの」 「ーーそう、……」  そうだ。先輩は面倒見の良い、サークル全体の兄みたいな存在で。  品行方正の無遅刻無欠席、染めたことなんてなさそうな髪はいつも一糸乱れず整えられている。  こんな人が、不用意に足元をぐらつかせる訳がない。つまらない理由で殺人なんか、犯すはずがないんだ。  でも、それじゃあこれは何。殺したいほどではないにしても、これは、 「そんなに俺のこと嫌いでしたか? ここまでしたいほど、そんなに」  心許せるひとが、またひとり指の隙間からこぼれ落ちていく。慣れない都会の一人暮らしに四苦八苦するなかで、学校以外の生活面までたくさん相談に乗ってくれた先輩なのに。  じわ、と目の中が熱くなる。  黒縁のメガネの奥からじっと見つめる先輩が、 「まさか、逆だよ」  口元だけで薄く笑んで、そっと伸ばした指先を俺の頬に触れた。  ピリ……微弱な電流が、頬を痛めた。  ……何の痛み?   頬に今度は、静かな指がつうと這う。  ーーピリピリ。  次はハッキリと痛みが走って、思わず眉をしかめた。 「最初は痛く感じる? へえ、そうなの」  ……じゃあ、これは?  近づいてくる唇からわずかに舌先が伸びてくる。その赤い舌に、つっ、と撫でるように下唇をなぞられた。  ゾク…… 心地よい電流に襲われる。縛られた手首がひとりでに動いた。  ーー何だ、今の。 「そう? 感じるんだ。良かった」  良かった? 何が。ーーよく分からない。  その指先がまた頬に触れる。今度は、痛みはない。ない代わりに強烈な快感が走って、我知らず「ひゃっ」と声が漏れた。  自分のものだとは認めたくない、女の子みたいな甘い声が。 「なに、を」  ーー何を飲ませたんです。  無遠慮に触れてくる親指が、下唇のうえを往復する。舌と同じ優しい力で、舌の時よりも執拗に。学校書庫の整理を担う先輩の手は乾いていて、触れられるたびに、ざらついた指の腹が皮の薄い唇を刺激して、 「……泣いてるの? 我慢しないで、声出しなよ」  ーーできるわけないでしょ。 「好きだよ、その声。個性的でとても良いと思う」 「わけの分かんない褒め方やめてくれます? ていうか、色々とやめて」 「いやだね」  なんなの。ほんと、なんなの。  ……信じてたのに。先輩だけは、 「きっと、そうなんだって」 「なに?」 「互いに、やっと」  信じ合える、一方通行じゃない思いを伝えられる人と、やっと巡り合えたんだって。そう思っていたのに。 「なのに俺、殺されちゃうの……」 「また? だから殺さないって言ってるのに。自分より大切なひとを傷つけたりしない」  自然に抱きしめてくる腕の温かさと、重なる胸の心臓の音。わずかに聞こえる息遣いが、無音のなかに響いてくる。  嬉しくて、愛しいのに叶わない。悲しくて、だから寂しい。  知ってる。これは孤悲(こい)の音だって。  たったひとり恋い焦がれる、哀しい孤悲の。  肩に感じる先輩の腕が震えている。泣いているのは心だろうか。 「ーーのに、絶交だなんて……ひどい」  かすれた声は、普段の先輩からは想像もできない弱々しさで。 「……するから。俺しか見えないように」  なってるよ。もうなってる。  でも認めたくないし、絶対に知られたくもない。 「おれ男ですよ。女の子の方がずっと好きですし、男なんて、興味ないし。まして先輩とだなんて、ーー」  言葉にすると胸がずきりと痛んで、やけに熱いと思った頬に舌が這っていた。 「あっ……」  また、だ。肌に直接触れられると、電流みたいに心地良い痺れが走るのは。 「吉岡の涙の味、塩辛くて、美味しいけど……」  耳元で話さないで。やめてくれ耳だけは、本当に。 「ずっとさ、感じるんだよね」  クスッ、と笑う吐息が耳にかかった。 「寂しい、悔しいって思いをさ。この中から感じてくるのは、どうして?」  いつの間に解かれていた上着の隙間から、乾いた掌が入り込む。肌の上で五指が遊ぶように這い回る、そのたびに変な声が出そうになる。 「やめ……」 「なんでかって聞いてるんだよ。答えろ」 「う、……」  熱い血が躍る、臓物の沸き立つ気配がする。  させているのは俺ではなくてーー、 「ひっ」  バサリと落ちてきた黒い影に、視界を闇と塗りつぶされる。  息苦しい。  重なり合うというよりも、強引に塞がれる口唇が熱くて痛くてたまらない。  傷口を無理に触れられているようなつらさに思わず胸を押し返した。 「痛むの? そう。じゃ、やっぱり……」  ふっと力を緩めた腕が、今度は優しく抱いてくる。花に触れるほど優しい口づけが、治りかけの傷口のような甘い疼きを運んでくる。 「泣きむし」  クスクス、笑う吐息が耳に近づく。 「ねえ、地獄耳の吉岡? 俺さ常々、耳の良い人ってのは耳自体の感覚も鋭いのじゃないかって、思うのだけど」  ーー試してみても良い?  なんて言葉を内耳の奥に吹きかけられて、答える間もなく、ずる……と熱い舌が耳に入り込んだ。   「う、あっ……!」  ぞくり、尾骨から這い上がってくる鋭い快感に視界が歪む。二重三重に捻じ曲がっていく世界は白濁として生温く、 「……可愛い。女の子みたいだ」  ーー心地良い。蟻地獄って、いうのだろうか。 「あ、でも……」  ためらいのない指が、洋服を滑り降りて俺の上着の裾に届いた。そこに隠しておきたいものにまで、じっと視線を送られる。 「ーー女の子には、コレはないか」  クスクスとよく笑う嫌な口元だ。  次はどうされるのかと否が応でも湧いてくる期待に自己嫌悪になるのに、 「なんてね、ぜんぶ冗談」  俺の肩をぽんぽんと叩いて、スッと引いていくとか。 「ネットで面白そうな薬を見つけたから、ちょっと試してみたかっただけ」  そういってデニムのポケットから取り出した小瓶には、赤紫の綺麗な液体が揺れていた。 「ーーあ、も……」 「なに?」 「……」 「もしかして、もっとして欲しいって思った? へえ、本当によく効くなぁこの薬」  ちゅ、と小瓶に口づけをして、またそれをポケットにしまい込む。 「ああごめん……良いよ、ちゃんといい子でいられるんなら。ちゃんと俺だけ見ていられたら、また続きをしてあげる。それでいい?」  朦朧と笑う顔も声もよく聞き取れないけれど、 「……ハイ」  流されるままにうなずくと、先輩は渋い顔をして首を横に振った。  え? 違うの?  混乱するこちらの胸を、人差し指がトントンと指してくる。  胸、の名札には何故だか『ミケ』と書いてある。何を思ってこの名を書かれたのかはさっぱり分からないけど、ーーえっと、だからーー、 「……みゃ、ミャア……?」  わけもわからず答えると、次はにっこりと笑んだ先輩が、やっと満足そうにうなずいた。 (終)
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